令和6年第4回 大倉山講演会/救貧から防貧へ-養育院経営が導いた渋沢栄一の福祉観-
- 2024.04.17
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令和6年「世のために田を耕す」/第4回 (通算105回) 終了
救貧から防貧へ-養育院経営が導いた渋沢栄一の福祉観-
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講 師:宮本 孝一(東京都健康長寿医療センター老年学情報センター 司書)
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日 時:令和6年(2024)6月15日(土) 14時~15時30分 (開場は13時45分)
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会 場:横浜市大倉山記念館ホール(東急東横線大倉山駅下車、徒歩7分)
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定 員:80名(入場無料、事前予約制・先着順) ※定員を超えた場合はご入場頂けません。
500もの会社経営に関わった大実業家として知られる渋沢栄一(しぶさわえいいち)。若き渋沢がめざしたのは、商工蔑視の国・日本を西洋のような商工業中心の国に変えることでした。一方で「偶然」「いきがかり」(渋沢談)で、1874(明治7)年から救貧施設「養育院」の経営に携わっています。幕府瓦解の混乱で東京中にあふれた失業者・浮浪者も、西洋式の事業形態(=株式会社)が増えれば仕事に就ける。貧困は怠け者の自業自得。そう、30代までの渋沢は考えていました。
ところが、西洋式の商工業は日本に根づき、巨大企業が続々と出現しても、極貧の生活困窮者は減るどころか増えるばかり。商工業の発達が社会の闇を広げる現実に直面しました。渋沢は1931(昭和6)年に亡くなるまでの約50年間、養育院院長を務め、東京の貧困層の現状や貧困層に対する蔑視とも、自分の仕事として四つに組み続けました。
渋沢はなぜ養育院院長であり続けたのか、その中で渋沢の社会福祉の考えが「貧困は自業自得」からどう変わったか、その結果どのような晩年を送ったのか、を見ていきます。
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