当財団の公益目的事業の一つ「地域における歴史・文化の研究及びその普及に関する事業」(定款第4号第2項)の研究調査の成果を公開しています。
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- 講演資料
- 本財団主催・共催で実施した周辺地域の歴史・文化に関する講演会にて、参加者に配布した資料や映像などで す。
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- 散策資料
- 周辺地域の散策に関して、本財団で作成した資料などです。
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- 大好き!大倉山
- 新聞販売店ASA大倉山発行の情報紙『大倉山 STYLE かわら版!』の連載です(平成28年4月号~)。
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- シリーズわがまち港北
- 横浜市港北区役所総務部地域振興課区民活動支援センター発行の『楽遊学』(平成30年4月までは『楽・遊・学』)の連載です(平成11年1月~平成30年4月、令和4年12月~)。一部加筆修正があります。
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- その他活字資料
- 上記以外の出版物で発表した、周辺地域の歴史・文化に 関する文字資料です。
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- よくある質問
- 大倉邦彦と大倉精神文化研究所、大倉山記念館に関して、研究所へ寄せられた質問のうち、問い合わせの多いものとその回答です。
よくある質問
大倉精神文化研究所でお問い合わせを受けることの多い質問や、過去に寄せられた質問とその回答を掲載します。
今後も随時、更新していく予定です。
大倉山地域のQ&A
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- 大倉山駅はむかし太尾駅といったそうですが、なぜ名前を変えたのですか?
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駅が出来たのは大正15年(1926年)2月14日で、最初は太尾駅と言いました。
その後、東急電鉄から大倉精神文化研究所に駅名改称の相談があり、協議した結果、昭和7年(1932年)3月31日に大倉山駅と改称しました。
駅名を変えた理由は2つ考えられています。
- 「ふとお」という名前が、東京や横浜市内から来る人たちになじみのない駅名だったから。
- 「太尾」と漢字で書くと「たお」と読まれ、「ふとお」と言うと、港の「埠頭」と間違えられたから。
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- 大倉山公園の梅林はいつ出来たのですか?
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大倉山の梅林は、東京急行電鉄(東急)が電車の乗る人を観光客で増やすために、龍松院から3ヘクタールの土地を買って昭和4年(1929年)から整備を行い、昭和7年(1932年)1月に開園しました。
梅はまず近くの農家から集めました。その後は、東横線の学芸大学駅近くにあったお金持ちの別荘の梅を移植したり、埼玉の農家から梅を買って植えたりしました。
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- 梅林が今の広さになったのはいつですか?
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昭和58年(1983年)から61年(1986年)にかけて、梅林は東急から横浜市に売却されました。
横浜市は新たに梅を植えたり、散策用の道や休憩所をつくったりして梅林を整備し、平成元年(1989年)に今の形で梅林が開園しました。
梅林の現在の面積は約1万㎡、梅林を含む大倉山公園全体の面積は約6万9千㎡です。令和6年現在の情報では46種約220本の梅が植えられています。
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- 梅林の梅や松は、誰が植えたのですか?
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梅林の梅は、最初は東急電鉄が植えていました。その後、昭和58年(1983年)から昭和61(1986年)の間にかけて少しずつ横浜市が土地を買い取ります。
それからは横浜市が少しずつ梅を植え替えています。
大倉山記念館Q&A
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- 大倉山記念館の広さはどれくらいですか?
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記念館の延床面積は約2989.63m2です。
大倉精神文化研究所Q&A
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- 大倉精神文化研究所という名前はなぜついたのですか?
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「大倉」は大倉邦彦の名字からつけられました。
「精神文化研究所」の「精神文化」とは心のことです。(物質文化・・・もの=建てもの、機械、車など)
大倉邦彦は明治以降の日本が、古くからの文化や考えをおろそかにして、西洋風の考えばかりを取り入れるようになったために、日本人の心が貧しくなってしまって世の中が悪くなっていると考えていました。そこで邦彦は単なる学問を研究する施設ではなく、東洋と西洋の文化のいいところを集め、立派な人間になるにはどうしたらよいかを研究し、その成果を広めることを目的として、「精神文化研究所」をつくりました。
大倉邦彦Q&A
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- 大倉邦彦さんはどんな人なのですか?
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大倉邦彦は紙問屋の会社の社長でしたが、いくつもの学校や研究所をつくりました。
大倉さんは教育に熱心で、世の中の役に立つ立派な人間になるためにはどうしたらいいかを考え、心や身を鍛える方法を研究し、自らそれを実行した人でした。
詳しくは、「創立者大倉邦彦」のページをご覧ください。
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- 大倉邦彦さんは大倉財閥の関係者ですか?
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大倉邦彦や大倉精神文化研究所は、大倉喜八郎氏が設立した大倉財閥とは関係がありません。