第106回 初代広重の杉戸絵
- 2007.10.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
前回の続きです。昭和12年(1937年)に小机(こづくえ)の泉谷寺(せんこくじ)を訪れた真下喜太郎(ましたきたろう)は、本堂の「仏龕(ぶつがん、仏像を入れておく厨子)の左右に四枚づつの杉戸があってそれに初代広重(ひろしげ)が山桜小禽(しょうきん、小鳥)の彩色画(さいしきが)を思う存分に描いている」(仮名遣いと読点を訂正、以下同様)と記しています。甲鳥書林(こうちょうしょりん)版の『武蔵野探勝(むさしのたんしょう)』には、杉戸絵(すぎとえ)の写真も掲載されています。
この広重の杉戸絵は、昭和3年(1928年)に詩人野口米次郎(のぐちよねじろう、第49回参照)によって発見されたもので、第1報を6段抜きのスクープ記事で伝えた『朝日新聞』(9月23日第11面)は、発見の経緯を次のように記しています。
野口米次郎の実兄は、芝増上寺山内の通元院(つうげんいん)の住職をしていました。増上寺の法類(ほうるい、同宗の僧侶)が集まったときに、各自の寺の自慢話が始まったといいます。泉谷寺も増上寺の末寺であり、久米真冏(くめしんけい)住職から「自分の寺には広重の杉戸がある」という話が出ました。この噂を聞いた野口米次郎は、当初は画の真偽を疑っていましたが、広重の落款(らっかん、押印)があることを聞き、9月19日、幸尾隆太郎(浮世絵収集家・研究家)と共に泉谷寺を訪れ、1時間余にわたって観賞し、広重の真筆(しんぴつ)であることを確認し、『朝日新聞』のスクープとなったのです。
広重(安藤または歌川、1797~1858年)は、「東海道五十三次」や「名所江戸百景」などの連作で有名な浮世絵師です。広重の兄弟であった了信(りょうしん)が、天保5年から同11年(1834~40年)にかけて泉谷寺の第26世住職を務めていることから、この間に泉谷寺へ滞在し、杉戸に彩色画を描いたものと思われます。
『朝日新聞』は、杉戸絵を次のように説明しています。
本堂の内陣(ないじん)と外陣(げじん)を限(かぎ)る杉戸八枚に一面に描かれた「山桜之図(やまざくらのず)」がそれである。杉戸四枚(この幅一丈五尺、高さ六尺)続きのもの二そろいで、各そろいに一本の桜の古木が描かれ、これに小鳥を配したものである。その構図たるや、版画の広重あるいは普通今まで世に行われて居(い)る肉筆のものとは、全く別人の観がある豪壮なもので、青いこけのむした幹の回り五六尺もあろうという山桜の古木が杉戸一面に枝を広げ、らんまんたる桜花(おうか)が目もくらむばかりにさき誇っているところへ、つばめ、山がら、すずめなどが、あるいは枝にとまり、あるいは樹木に遊びたわむれている図柄である。しかも花弁やしべの細部に至るまで、一筆一画いやしくもせぬ密画(みつが)で、図の右方下部に「一立斎広重いちりゅうさいひろしげ」の落款(らっかん)が方二寸大(ほうにすんだい)のかい書でぼく書され、その下に「東海堂(とうかいどう)」の書き判(かきはん)がしゅ書(しょ)されて居(お)り、一見広重の筆なることが明瞭なのである。
広重が描いた山桜は、泉谷寺門前の桜並木だといわれています。これは、20世住職恵頓上人(えとんしょうにん)が植えたもので、後年「桜大門(さくらだいもん)」として名所になりました。大田南畝(おおたなんぽ)も文化6年(1809年)に見に来ています(第78回参照)。
この杉戸絵は、昭和33年(1958年)に県の有形文化財(第73回参照)に指定されています。現在では非公開となっていますので、写真で見るしかありません。
『神奈川県文化財図鑑 絵画篇』(神奈川県教育委員会、1981年)に大きなカラー写真と詳しい解説が載っています。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2007年10月号)