第121回 門松と鎌倉権五郎景政と『港北百話』
- 2009.01.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北2』(『わがまち港北』出版グループ、2014年4月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
「年の始めの 例とて 終なき世の めでたさを 松竹立てて 門ごとに 祝う今日こそ 楽しけれ」
この歌は、文部省唱歌の「一月一日」(千家尊福作詞、上真行作曲)です。明治26年(1893年)から歌い継がれたこの歌により、玄関へ門松を立てて正月を迎えるという風習が全国に広まったといわれています。門松とは、歳神(正月に家にお迎えして祀る神様)の依代(神霊が憑依する物)の一種であり、かつては地方により様々な種類や習慣がありました。そこで、港北区内を調べてみると、新吉田町(元は吉田村)には門松を立てない習慣がありました。その由来は、第114回で紹介した鎌倉権五郎景政の伝説にあります。
鎌倉景政(平景政)は、桓武平氏の流れをくむ平安時代後期の武将で、鎌倉地域を領有していたことから鎌倉氏を称しました。新吉田一帯も景政の領地であったといいます。景政は八幡太郎源義家に仕えて、16歳の時に後三年の役(1083~87年)に従軍しますが、右目を矢で射られました。『港北百話』によると、傷ついた景政は馬で運ばれて帰ってきましたが、吉田村で亡くなります。ちょうど暮も押し詰まっての騒ぎであり、地域の人々は正月の準備をする暇もなかったため、それ以来吉田村では門松を立てなくなったといわれています。
また、正月のお飾りは、通常は一夜飾を避けるのですが(大晦日は歳神を迎えるための厳重な忌み籠りをする日であるため)、吉田村では逆に一夜飾をするという習わしが生まれたといいます。
この景政にはすごい逸話があります。敵の矢で右目を射られた景政は、その敵を逆に射殺して自陣に戻ります。苦しむ景政を見て、仲間の三浦平太郎為次が駈け寄り、景政の顔を足で踏みつけて矢を抜こうとしました。すると景政は激しく怒って刀を抜き、「矢が刺さり死ぬのは武士の本望だが、足で顔を踏まれるのは恥だから、お前を殺して自分も死ぬ」と言ったそうです。そこで為次は謝って丁重に矢を抜いたという話が、1347年に書かれた『奥州後三年記』という古い戦記に記されています。弱冠16歳の若武者は、この胆力で死後神として祀られました。
また、景政が、射られた目を洗った厨川(秋田県横手市)のカジカが片目になったという片目の魚伝説もあります。この話から思い出されるのが、「いの池」の片目の鯉伝説です。師岡熊野神社の神様が戦で片目を射られた時、いの池の鯉の片目をひき抜いて治したといい、それ以来「いの池」の鯉は全て片目なったといわれます。
鎌倉権五郎景政の伝説も、いの池の伝説も『港北百話』に納められています。昭和51年(1976年)に刊行された『港北百話』は、区内に伝わる伝説、民俗、歴史、信仰、文化、産業など多方面にわたる内容をまとめた本です。港北区役所と港北区老人クラブ連合会が協力して、昭和48年度(1973年)から3年間をかけて区内各地域毎に土地の古老に集まっていただき、「古老を囲んで港北を語る」という地域座談会を開きました。『港北百話』は、その成果をまとめた本です。この時に、座談会の様子や話に関連する遺跡・品物・地域の情景などを撮影した8ミリ映画も作られたとのことです。筆者はまだ見たことがありませんが、現存するなら是非見てみたいです。
今年は港北区制70周年の記念の年です。『港北百話』が出版されてからでも30年以上が経過しています。港北区域の文化や古い伝承、昔の生活などに改めて注目が集まりそうで楽しみです。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2009年1月号)