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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第134回 雪ニモマケズ、風邪ニモマケズ

2010.02.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北2』(『わがまち港北』出版グループ、2014年4月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


最近では、真冬でも氷が張っているのを見ることが少なくなりました。しかし、かつて天然氷(第43回参照)の生産が地場産業だった港北区域では、冬の朝、田んぼも一面凍りついていました。古老の方に話を聞いていると、かつて田んぼの中にあった大綱小学校(おおつなしょうがっこう)へ通うのに、道路やあぜ道ではなく、凍りついた水田の中を一直線に歩いて通学したのだそうです。これは便利ですが、一旦氷が割れると、それはもう悲惨でした。

凍りついた水田では、すり減った下駄(げた)や通学用ズックでスケートのまねごとをすることもあったようです。ただし、日が当たると氷はすぐに溶けてしまいますから、滑れるのは早朝だけでした(『北つな』)。

昔は今より寒かったようなので調べてみました。『大綱時報』第15号に掲載された城田弥市(しろたやいち)少年の作文によると、朝井戸端へ顔を洗いに出ると、前夜の冷え込みで辺り一面霜(しも)で真っ白になっていました。なんと、これは大正11年(1922年)10月10日のことでした。10月前半に霜が降りたこともあったのです。『横浜市の学童疎開』(第92回参照)には、昭和20年(1945年)の冬はとても寒く、小机に疎開してきた斎藤分国民学校(さいとうぶんこくみんがっこう)の3年生が、「しもやけで紫色に腫(は)れあがった左手の手首の潰瘍(かいよう)の跡は五十歳を過ぎる頃迄消えなかった。足の小指を失った友もいたと聞いた」と記しています。

『大綱村郷土誌』(1913年編纂、第54回参照)には、夏季の最高温度が華氏(かし)94度(摂氏(せし)34.4度)、冬季最低温度華氏25度(摂氏-3.9度)と記されていますが、「気候概(おおむ)ね温和にして寒暑共に甚(はなはだ)しからず」とも記されています。しかし、それに続けて「丘陵の北部に位置する北綱島、樽、大曽根、菊名、大豆戸(まめど)、篠原(しのはら)の一部」は、寒気が少し強く、それゆえに天然氷を産出していると記しています。昔は氷点下になることがよくあったようです。『港北区勢要覧』によると、最低気温は1948年が-7.6℃、1950年-3.5℃、1952年-4.0℃でした。池辺町(いこのべちょう)(当時港北区、現在は都筑区)にあった都田測候所(つだそっこうじょ)の観測で、いずれも1月に記録しています。

雪についても調べてみました。『箕輪のあゆみ』(みのわのあゆみ)によると、1897年、1908年、1924年、1936年、1952年、1954年、1986年、1988年、1994年などに大雪が降ったとあります。また、1984年は23回もの降雪があったとのことです。

大倉精神文化研究所の日誌を調べると、かつては毎年のように12月から3月まで降雪の記録があります。昭和17年(1942年)2月2日と昭和19年3月5日は共に積雪五寸(すん)(約15センチ)でした。

いまでは、誰もが暖かい服装をしていますし、暖房の効いた建物や乗り物がありますし、道路も舗装されています。しかし、昔は大変でした。100年ほど前の大正の頃は、クツはよそ行きの大切なもので、普段は草履(ぞうり)を履(は)いていました。道路が舗装されていませんでしたから、雨が降ると履きものが泥だらけになるので、暖かい季節なら、裸足(はだし)で登校しました。『大綱今昔』(おおつなこんじゃく)によると、漆原粂七(うるしばらくめしち)さん(1897年生まれ、第130回参照)は、ゴム長ぐつなどないので、雪の日でも素足(すあし)に草履をはいて大曽根の尋常第二小学校へ通学しました。そのため、学校へ着くころには足が非常に冷たくなっていました。しかし、もっと大変だったのは、学校にあった囲炉裏(いろり)で暖をとったときで、かじかんだ足に血が通うと、とても痛かったそうです。足袋(たび)をはくこともあったそうですが、子供たちは、真冬でも素足に草履で通学していたのでした。

雨や雪の日には、歯の長い高下駄(たかげた)をはいて通学する子もいました。高下駄は歩きにくいですし、歯の間に付いた雪を時々落とさなくてはなりません。棒で歯の間の雪を落としたり、電柱に下駄を打ち付けたりしましたが、強く打ち付けると歯が欠けることもあり面倒でした。

しかし、雪は厄介なことばかりではありません、楽しいこともありました。

雪降ればパッチンしかけ雀(すずめ)おせ 雀の肉はうどんと煮らる(『おおつな八十余年の流れ』)

雪が降り積もると、1ヵ所だけ雪をどけて、そこに米をまき、蔓(つる)で作った「パッチン」という仕掛けで雀を捕(と)りました。捕った雀は解体して、肉をうどんに入れて食べたのです。

『菊名あのころ』には、雪の上に残った足跡を追っかけて、ウサギが捕れたという話が記されています。『大綱時報』第14号では、通学路のそばに少しの穴があいていて、中に山兎(やまうさぎ)(ノウサギのことか?)が昼寝をしていたという子供の作文が掲載されています。野生のウサギがたくさん棲息(せいそく)していたようです。ウサギの肉もごちそうでした。

時代と共に人々の生活は変わりました。気候も変動しているようですが、子供は風の子であって欲しいと願う親の気持ちは変わらないようです。

記:平井誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2010年2月号)

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