第14回 鷹狩りと村の生活
- 2000.02.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
冬は渡り鳥のシーズンです。都市化の進んだ近年ではあまり見かけることが無くなりましたが、かつて、江戸周辺の村々は渡り鳥の宝庫でした。湿地帯の多かった港北区域にも多くの鳥が来ていました。江戸時代までは、その鳥を獲物として、鷹狩り(たかがり)が行われていました。
徳川家康(とくがわいえやす)を始めとして、葵三代は鷹狩りが好きでした。家康は、なんと生涯に一千回以上もの鷹狩りをしたと伝えられています。一体誰が数えたのでしょうか。
三代将軍家光(いえみつ)の時に、江戸周辺に、御鷹場(おたかば)が設けられました。御鷹場は、生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)で有名な五代綱吉(つなよし)の時に一時廃止されましたが、八代吉宗(よしむね)により再開され、幕末まで続きました。鷹場は、将軍が鷹狩りをする御拳場(おこぶしば)と、鷹を訓練するための御捉飼場(おとりかえば)からなっていました。御拳場は、六地域に分けられていて、江戸の町をぐるりと囲んでいました。品川区・川崎市あたりは、その内の一つ「品川筋御拳場(しながわすじおこぶしば)」でした。港北区域から西はその外側で、御捉飼場に指定されていました。
時期により多少の異同がありますが、江戸中期ですと、港北区域は、矢上村(やがみむら、日吉一~七丁目)、篠原村(しのはらむら)、岸根村(きしねむら)を除き、大半が御捉飼場になっていました。
川崎市との境界をはさんで、鶴見川に架(か)けられている橋が、鷹野橋人道橋(たかのばしじんどうばし)、鷹野大橋(たかのおおはし)と名付けられているのは、この鷹場に由来しています。
御捉飼場には、鷹匠(たかじょう)が江戸の雑司ヶ谷(ぞうしがや)から年に四、五回やって来て鷹を訓練するだけでしたが、普段は「野廻り(のまわり)」という役人が管理をしていました。野廻りは、地元の有力農民が任命されていました。区域では、大曽根の冨川八郎右衛門(ふかわはちろうえもん、18世紀後半、宝暦~天明)、北綱島の飯田助太夫(いいだすけだゆう、19世紀前半、文化~文政)、南綱島の池谷重兵衛(いけのやじゅうべえ、幕末)等が野廻りを務めていました。池谷家には、鷹を休ませた御鷹部屋が関東大震災の時まで残されていました。
野鳥保護のために、御捉飼場の村々では、狩猟禁止は当然のことながら、冬場は鳥の餌となる魚捕りの禁止や耕作の制限がなされていました。病気の鳥や死んだ鳥を見付けたときは届け出なければなりませんし、野原や耕での焚き火やかがり火の禁止、家普請の制限など大変窮屈な生活を強いられていました。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2000年2月号)