第140回 戦争体験の記憶と記録 -終戦秘話その13-
- 2010.08.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北2』(『わがまち港北』出版グループ、2014年4月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
11年前に筆者がこの連載を始める時、8月号は必ず戦争関係の記事を書くと心に決めました。この連載は、記述の範囲を港北区域に限定していますから、戦争関係といっても、おのずと空襲や戦災、港北区内にあった軍事関連施設、戦時下の人々の生活といった内容になります。筆者は戦後生まれですが、このことは歴史家としての責務と考えています。
さて、横浜では、『横浜の空襲と戦災』全6巻(横浜の空襲を記録する会、1975~77年)という貴重な記録が編纂(へんさん)されています。第1巻には250件の体験記が掲載されていますが、港北区域では鋤柄敏子(すきがらとしこ)さん(大倉山)、斉藤実さん(新吉田)、岡島政太郎さん(篠原(しのはら))、三宅秋太さん(菊名)、森照子さん(大倉山)のわずか5名の体験が掲載されているだけです。しかし、被害が全体の250分の5だった訳ではありません。様々な制約の中で、調査や記録が行き届かなかったのです。
横浜の空襲を記録する会は、全6巻を刊行した後も活動を続けています。その会員のお一人である小野静枝さんは、現在でも港北区域の空襲被害を調査されており、『横浜の空襲を記録する会かいほう』第52号に「東横沿線(港北区大倉山周辺)空襲被害調査一覧」を掲載しています。そこには空襲を受けた日付け順に、場所と被害の状況が詳細にリスト化されています。しかし、このリストもまだ完璧(かんぺき)ではありません。戦争を体験した人たちは少なくなり、その記憶も薄れつつあります。体験者の記憶を少しでも記録しておくことが急務となっています。
小野さんの記事が縁となり、大綱小学校(おおつなしょうがっこう)で小野さんと同級生だった西川喜代子さん・河野数子(こうのかずこ)さん、小野さんの兄と同級生だった武田信治(たけだのぶはる)さん・漆原憲夫(うるしばらのりお)さん、横浜北部の戦争について調べている吉川英男さんにお集まりいただき、話を伺いました。
小野さんは、大倉山駅の近くに生まれ育ち、昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲では、女学校の帰りに、東神奈川駅で横浜線の電車に乗り遅れ、雨のごとく降りそそぐ焼夷弾(しょういだん)や火の手を避けながら逃げ惑いました。河野数子さんは運良くその電車に乗れたために空襲を逃れることが出来ました。西川さんや河野さんたちは定期的に同窓会を開いていますが、西川さんが「これまで空襲の話などは一度もしたことがなかった」と言われたのが、重く心に響きました。
武田さんからは、母親の実家(神奈川区菅田(すげた))に250キロ爆弾が落ちて家族2人が亡くなられた時のことを、母親が晩年に実家の方へ遺言のように書き残した記録を見せていただきました。漆原さんからは、茅葺(かやぶ)き屋根に上って、焼夷弾の火の粉を払った話などを伺いました。古い地図のコピーを広げて、被災家屋に赤丸を付けながら、皆さんからお話を伺いました。その内容は、いずれ別の機会にご紹介したいと思います。
戦争当時、男性は兵士として戦場へ駆り出されていましたので、故郷の様子は戦後復員(ふくいん)(兵役を解かれて帰省(きせい)すること)して初めて知ったという方も多いようです。篠原町(しのはらちょう)の押尾寅松さんは、横浜大空襲の様子を調査して、著書『山野草と避雷針のくりごと』に書かれていますが(第33回参照)、その頃、当人は中国戦線に派遣されていました。新吉田町の滝嶋芳夫さん(第82回参照)は、フィリピン群島ミンダナオ島に派遣されていたときのことを『いなご豆』という本で詳細に書いています。つい先日、日吉の板垣大助さんから、ハルピンへ派遣された時のことを伺いました。板垣さんの著書『追憶』には、戦地の様子や、戦後、御神体を紛失するほどに荒廃していた日吉神社を修復整備した様子、戦没者の慰霊碑を建立した経緯などが書かれています。
空襲や戦時下の生活を体験していたのは、主に女性か子供です。新羽町の山室まささんは著書『雀のお宿』で、横浜大空襲を逃れて新羽町で疎開生活を始めたことや、ご主人の復員の様子などを書かれています。
今の子供たちは、小学校3年生になると町探検をして、自分達が住んでいる地域の地理や歴史を学びます。なんと来年から使われるある教科書では、町探検の事例として大倉山が採り上げられています。その取材に協力したとき、「おじいさんやおばあさんの子供の頃のこと」を調べる課題として、戦後の様子が知りたいと言われました。子供たちの両親は30代から40代、祖父母は60代でしょうか。戦中や戦前のことは、もはや小学生に伝えるには古すぎる話なのでしょうか。戦後65年を経(へ)て、若い世代に戦争のことを伝えるのは困難になりつつあります。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)
(2010年8月号)