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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第150回 震災を語り継げるか -関東大震災の教訓と東日本大震災、その2-

2011.06.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北2』(『わがまち港北』出版グループ、2014年4月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


前回の続きです。大正12年(1923年)の関東大震災当時、港北区域は、鶴見川の氾濫(はんらん)による水害が多い地域でした。その洪水対策として、山沿いの微高地に立てられていた家々は、地盤も比較的強固で地震の被害をさほど受けませんでした。しかし、多くの書物には、鶴見川沿いの地盤の緩(ゆる)いところに建てられていた家々に被害が集中したことが記されています。

関東大震災時の液状化については、第34回で篠原(しのはら)の例を紹介しましたが、今回の東北地方太平洋沖地震では、小机で液状化が発生したことを、3月31日と4月9日の『朝日新聞』、4月11日の『神奈川新聞』等が報道しています。なお、当該地が池の跡という記述は、古い地図を調べてみると誤りかと思われます。

市域の「液状化マップ」は、インターネットで「横浜市の危機管理」ページに公開されています。これは、「南関東地震」「東海地震」「横浜市直下の地震」の3種類の地震を想定して、それぞれについて液状化危険度を記したものです。しかし、このマップに小机の今回の場所は記されていませんから、危険地域を完全に予測することは難しいのでしょう。4月26日の新聞では、今後ボーリング調査による見直しが図られるとの報道がなされています。完璧(かんぺき)ではないにしても、是非見ておくべきマップです。

東日本大震災の少し前、2月20日に慶應義塾大学日吉キャンパス内で開かれた鶴見川流域総合治水対策30周年記念シンポジウムの席上、鶴見川の津波を警戒する発言がありましたが、今回の地震でそれが現実のものとなりました。インターネットには、鶴見川を遡上(そじょう)する津波の目撃情報が、写真入りで何件も紹介されています。

河川(かせん)の氾濫(はんらん)については、区役所で配布している『港北区洪水ハザードマップ』があります。『港北区防災マップ』には、広域避難所や地域防災拠点が記されています。これらのマップは、裏面にも大切な情報が書かれていますから、要チェックです。

さて、関東大震災の後、人々はどのように生活していたのでしょうか。滝嶋芳夫(たきしまよしお)さんによると、最も困ったことは、水が出なくなったことだそうです(『おやじとおれたちの都筑、新田、村小学校』)。関東大震災当時、港北区域にはまだ水道が敷設(ふせつ)されておらず(第81回参照)、各家庭では井戸水を使用していました。しかし、地震の影響で地下水脈が変化し、水が涸(か)れてしまい困った家庭が多かったようです。逆に湧(わ)き水が発生した所もありました。

余震が頻発(ひんぱつ)し、夜家の中で寝ることが出来なくて、漆原粂七さんは、約1ヵ月もの間家の外へ蚊帳(かや)を吊(つ)ってすごしました(『大綱今昔』)。滝嶋芳夫さんも、「余震が続いたので、竹藪(たけやぶ)に蚊帳を吊って、何日かをすごしたようだ」(『おやじとおれたちの都筑、新田、村小学校』)と記しています。

なぜ竹ヤブなのでしょうか。漆原粂七(うるしばらくめしち)さんは、「わたしはよく母から地震の時は竹ヤブに行けといわれていた」(『大綱今昔』)と回想しています。竹ヤブは地震に強いという言い伝えがありますが、一方で、これは迷信であり竹ヤブは危ないという説もあります。指定の広域避難所へ逃げるのが確実なようです。

こうした震災後の苦しい生活の中で、被災者への支援活動も行われていました。

農村だった港北区域は、市街地に比べると被害は少なかったのですが、それでも被災したことに変わりはありません。しかし、小机・鳥山・岸根地区を含む城郷村(しろさとむら)青年団では、横浜市街地の被災者を救助するための野菜・飲み物・食料などを荷車や馬車などに満載して、市役所や県庁へ届けています。また、被害を受けた城郷小学校を修繕するために、15日間に延べ179名の団員が勤労奉仕をしました(『城郷青年団史』)。

この地震を契機として、地域の様子が変わっていきます。関東大震災の頃は、ちょうど鉄道網が発達してきた時期でもありました。震災後は、東京や横浜など人口が密集し被害の大きかった市街地から、鉄道沿線の郊外へ転居する人が増えました。東横線は震災の影響で開通が少し遅れましたが、大正15年(1926年)に多摩川より南側部分が開通し、その後多摩川の北側部分も開通し、港北区域も宅地化が進みました。その一方で、地場産業として盛んだった天然氷の生産は、生産設備が被害を受けて衰退していきました(第43回参照)。今回の震災で、港北区域の様子や私たちの生活にどのような変化が起きるのでしょうか。私たちは、今歴史を作りつつある当事者として、後世に何を伝えられるでしょうか。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)

(2011年6月号)

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