第152回 岸根公園の接収 -終戦秘話その14-
- 2011.08.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北2』(『わがまち港北』出版グループ、2014年4月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
東日本大震災の被災者を受け入れる一時避難所は、港北区内では岸根公園(きしねこうえん)内の神奈川県立武道館に、3月18日から4月28日まで設けられていました。避難されていた皆様が一日も早く元の生活に戻れることを願うばかりです。
さて、この県立武道館は、昭和56~57年(1981~82年)に建設された建物です。その敷地は、かつてL字型をしていた篠原池(しのはらいけ)の東側半分を埋め立てたものでした。
岸根公園のあたりは鎌ヶ谷戸(かまがやと)といい、谷間(たにま)地形をしています。篠原池は、谷戸(やと)に湧き出る清水から出来た農業用ため池でした。この水で、かつては篠原町から新横浜方面にかけての耕地に用水を供給していました。
この岸根公園の土地は、戦争と深く関わっていました。戦前、横浜市は、防空公園を兼ねた都市計画公園の建設を計画し、このあたりの民有地14.3ヘクタール(43,000坪)を買い上げました。昭和15年(1940年)の皇紀(こうき)2600年記念と、昭和15年の東京オリンピック会場(第131回参照)を想定して、総合運動場が作られるはずでした。
しかし、戦争により公園整備は中止され、戦時中は一部に高射砲陣地が作られました。岸根のEさんが以前に調べてくださったところによると、兵舎(ひょうたん原っぱと少年野球場の間)、高射砲7基(少年野球場から西広場)、双連(そうれん)対空機関砲2~3基(岸根保育園)、その北側にレーダー2基が設置されていたそうです。
昭和20年8月15日に戦争は終わりました。高射砲陣地も撤去されましたが、今度は米軍(べいぐん・アメリカ軍)による接収問題がその後も長く影を落としていきます。
戦後の日本は連合国軍の占領下に置かれ、横浜では市街地を中心として多数の土地や建物が米軍に接収されました。しかも、接収対象は、占領政策の影響により絶えず変化していました。岸根の公園用地も接収対象となり、高射砲陣地と兵舎建設用地とに分かれて、複雑な動きを見せます。
昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が勃発すると、米軍は軍事施設の増強を図り、接収が増加します。米軍は岸根の公園用地の一部(市有地5,745坪、民有地2,029坪)を接収し、高射砲陣地を作りました。休戦協定が結ばれた後、昭和30年(1955年)12月に接収解除となりますが、市有地は国有地となり、引き続き自衛隊の高射砲陣地に転用されます。しかし、地対空ミサイルの開発普及により、高射砲陣地は不要となり、昭和41年(1966年)に廃止されます。この土地は再び市有地となり、昭和46年(1971年)4月に岸根公園として公開されました。
これと並行して、昭和28年(1953年)から、残りの土地を米軍兵舎建設用地にする動きが始まります。
昭和26年(1951年)の講和条約調印と翌年の発効により、日本が独立国として国際社会に復帰しても、接収の現状はあまり変わらず、横浜市街地の戦後復興は大きく立ち遅れていました。そうした状況を打開するための応急措置として、市街地の周辺部に代替施設を国費によって建設し、重要市街地施設の接収を解除しようとする政策がとられ、賛否両論の渦巻く中、岸根もその候補地とされたのです。
昭和30年(1955年)4月と10月の2回にわたり、中心市街地に散在していた米軍兵舎など3施設を、岸根の公園用地(約13.4ヘクタール)へ移転、集約させました。政府は地元の反対運動を押し切り昭和32年に工事を完成させます。こうして作られたのが、岸根兵舎地区(FAC-3165、Kishine Barracks)でした。当初は市内在勤下士官・兵の宿舎でしたが、韓国からの帰休米兵の休養施設としても利用されました。
ところが、ベトナム戦争の拡大に伴い、米軍は昭和41年(1966年)12月に突然用途を変更して、在日米陸軍野戦病院(第106陸軍総合病院)を開設しました。病院は最盛期ベット数1,000、4階建て病棟を4棟も持つ大規模なもので、ベトナムから横田基地に到着した傷病兵が、毎日大型ヘリで大勢運び込まれていきました。
市は用途変更反対要請書を国へ提出すると共に、返還請求運動を続けますが、地元では①伝染病患者移送の不安、②ゴミ焼却炉の煤煙公害、③ヘリコプターの騒音公害、④篠原池の水質汚濁など様々な問題で苦しめられました。
こうした問題で米軍側への陳情や協議が続けられ、接収解除促進運動が展開されていく中で、昭和43年(1968年)ベトナム戦争が停戦へ向けて動き出すと、昭和45年(1970年)6月末で病院は閉鎖されました。
昭和47年(1972年)8月25日に接収が解除され返還されると、再び市有地となりました。この時も、自衛隊基地としての土地提供を求める動きがありましたが、市はこれを拒否し、スポーツ公園として整備することになります。先に公開した高射砲陣地跡地の部分も含めて、昭和49年(1974年)に総合計画が決定し、平成元年(1989年)3月に岸根公園が完成しました。
私たちにとっての戦争はいつ終わったのでしょうか。横浜市全域を見ると、接収地問題は現在でも解決していません。戦争の影響は続いています。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)
(2011年8月号)