第153回 郷土の銘菓「やまとゆきはら」 -横浜と吉良-
- 2011.09.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北2』(『わがまち港北』出版グループ、2014年4月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
先日、仕事で愛知県西尾市吉良町(にしおしきらちょう)(3月までは幡豆郡(はずぐん)吉良町)へ行きました。横浜と吉良はいくつもの縁がありますので、ご紹介しておきましょう。
吉良町は、歴史上の著名人として吉良上野介(こうずけのすけ)、吉良の仁吉(にきち)、尾崎士郎(おざきしろう)の3人を挙げて、「吉良三人衆」として紹介しています。吉良上野介は、赤穂(あこう)事件(忠臣蔵(ちゅうしんぐら))で有名ですが、その一族には、横浜市南区蒔田町(まいたちょう)辺りを領有していた蒔田氏(まいたし)がいます。蒔田氏は、吉良上野介と同じ高家職(こうけしょく)に就いており、後年吉良姓を名乗ります。
吉良の仁吉は、清水次郎長(しみずのじろちょう)の兄弟分として幕末期に活躍した侠客(きょうかく)ですが、区内下田町(しもだちょう)には、侠客の兼五郎(かねごろう)親分がいました。『港北百話』には、兼五郎親分の任侠(にんきょう)に富んだ逸話(いつわ)や、下田小学校が親分の屋敷跡に建てられていることなどが詳しく記されています。
尾崎士郎は、小説『人生劇場』で一世を風靡(ふうび)した吉良町生まれの文豪ですが、小学校入学の頃、一時中区野毛(のげ)の親戚宅へ養子に出されていたことがありました。
今回、西尾市史編さん室で、水村さん、颯田(さった)さん、三田(さんだ)さんから、横浜と吉良を結ぶもう1つの縁について教わりました。南極探検で有名な白瀬矗(しらせのぶ)中尉(ちゅうい)です。白瀬中尉は、南極探検から帰った後、探検費用の借金を返済するために全国各地を講演旅行し、晩年は子供たちの家を転々として生活していましたが、昭和21年(1946年)に愛知県の挙母町(ころもちょう)(現、豊田市(とよたし))でで亡くなります。遺族は吉良町西林寺(さいりんじ)に転居し、墓は西林寺墓地に建てられました。後に、白瀬の出生地である秋田県金浦町(このうらまち)(現、にかほ市)から浄蓮寺(じょうれんじ)住職(白瀬の甥(おい))がその墓を訪れ、分骨して浄蓮寺にも墓を建てています。この話を聞いて思い出しました。『とうよこ沿線』第19号で、前川正男氏が「白瀬中尉は、昭和9年(1934年)にこの妙蓮)寺(みょうれんじ)に家を建て、蒲田女塚(かまたおなづか)から引越してきた。ここには6年間居住し、家を神部(かんべ)老に売却、埼玉の方へ移られたという」と記しています。
詳しく調べたところ、少し違っていました。木村義昌(よしまさ)・谷口善也(ぜんや)著『白瀬中尉探検記』、渡部(わたなべ)誠一郎著『よみがえる白瀬中尉』などによると、白瀬は東京の蒲田区(かまたく)(現、大田区)新宿(しんしゅく)から港北区へ転居してきます。妙蓮寺裏山の住宅地(現、菊名2丁目)にあった洋館は、白瀬の三男猛(たけし)の家であり、昭和13年(1938年)9月から3年ほど同居して、昭和16年(1941年)12月に東京の大泉に転居し、翌年埼玉県の片山村(現、新座市(にいざし))へ移っています。
白瀬矗(のぶ)中尉の墓は、実はもう1ヵ所ありました。横浜市港南区日野公園墓地です。南極探検を終えて横浜港へ帰ってきたことが縁ともいわれますが、どのような経緯で横浜の墓が造られたのかは確認出来ませんでした。ご存じの方は教えてください。
さて、白瀬は文久元年(ぶんきゅうがんねん)(1861年)6月13日生まれですから、今年は生誕150年の記念の年です。白瀬が南極へ行き、西経(せいけい)156度37分、南緯(なんい)80度05分の地(氷上)に「日章旗(にっしょうき)」を立て、一体を「大和雪原」と命名したのは、明治45年(1912年)1月28日のことでした。来年は南極探検100周年です。
白瀬が生まれたのと同じ年に、インドの詩聖タゴールも生まれています。タゴールは大倉邦彦や大倉精神文化研究所と縁が深く(第49回参照)、11月には記念の展示会や講演会を予定しています。
閑話休題、白瀬矗(のぶ)中尉が発見・命名した大和雪原は、「やまとせつげん」ではなく「やまとゆきはら」と読むのが正しいことも教わりました。吉良町の御菓子所東角園(とうかくえん)は、郷土銘菓として、「やまとゆきはら」という和菓子を販売しています。朝日を浴びて輝く南極のダイヤモンドダスト、それを集めて作った雪玉のような、キラキラ輝く上品な和菓子です。第133回で地産の銘菓をたくさん紹介しましたが、吉良町にも港北区と縁がある銘菓がありました。東角園では、他にも吉良上野介にちなんだ「吉良の赤馬」「黄金(こがね)づつみ」、尾崎士郎にちなんだ「人生劇場」といった銘菓も販売していました。
吉良家研究は、筆者にとって長年の研究テーマの1つであり、来年度には『吉良家日記』の翻刻・出版を予定していますが、それに併せて「吉良日記」という和菓子を作るように、吉良町の水村さんが東角園の社長に勧(すす)めているとか...。横浜と吉良、もうひとつ縁が増えることになるのでしょうか。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)
(2011年9月号)