第168回 港北区内の名僧・学僧 -その2、平等通照-
- 2012.12.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北2』(『わがまち港北』出版グループ、2014年4月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
前回紹介した鳥山町三会寺(さんねじ)の住職釈興然(しゃくこうねん)(1849~1924年)から、大きな影響を受け、パーリ語の研究者になった僧侶がいます。新羽町(にっぱちょう)善教寺(せんきょうじ)の前住職平等通昭(びょうどうつうしょう)です。「びょうどう」という珍しい名字の由来は、著書『鐘は鳴っている』に詳しく記されています。本名は通照(みちてる)、得度して通昭(つうしょう)となり戸籍も変更しましたが、本人は通照の字が好きで、晩年には著者名等で通照(つうしょう)をよく使っていますので、以下は通照と書きます。
さて、善教寺は浄土真宗本願寺派のお寺ですが、三会寺は真言宗で宗派が違います。しかも、釈興然は上座部(じょうざぶ)仏教の比丘(びく)です。一見関係なさそうですが、通照は、著書『仏陀(ぶっだ)の死』で、釈興然のことを「セイロンの仏寺に長く留学修業し、巴利語(パーリご)を解し、原始仏教々団の黄衣(こうえ)を着し、戒律(かいりつ)を堅く保って居られた清僧(せいそう)」と高く評価しています。明治36年(1903年)生まれの通照は、横浜第二中学校(現、翠嵐[すいらん])に進学し、小机駅から汽車で通学しましたが、その時、釈興然を見かけました。後に第16世住職の父信之(しんし)に誘われて、三会寺を訪れた通照は、「その時こそ私が原始仏教(南方)根本仏教と堅い絆で結ばれ、巴利語(パーリご)と深い縁が結ばれることになった」(『鐘は鳴っている』)と記しています。
通照は、やがて東京帝国大学文学部梵文(ぼんぶん)学科に入学し、前回紹介した「釈尊正風会(しゃくそんしょうふうかい)」の評議員でもある高楠順次郎(たかくすじゅんじろう)から梵文の指導を受け、大学院へ進みます。通照は、釈尊(しゃくそん・お釈迦様、ブッダ)の生涯を描いた叙事詩「仏所行讃(ぶっしょぎょうさん)」の翻訳と研究を生涯の研究テーマとすることになります。
大学院を修了した通照は、研究成果や一般向けの平易な翻訳書を出版しようとしましたが、昭和恐慌の影響を受けて上手く話が進まず、意を決して、自宅を印度(インド)学研究所と称して、昭和4年4月8日、釈尊(しゃくそん・ブッダ)の誕生日とされる日に、『仏陀(ぶっだ)の生涯』を自費出版しました。これが最初の著書です。
ちょうどその頃、大倉山では精神文化研究所の建設が始まり、研究員の採用準備が進んでいました。定年退官した高楠博士に続いて、平等通照の指導教官となった木村泰賢(きむらたいけん)教授は、大倉邦彦へ通照の採用を頼んでいましたが、昭和5年に急逝してしまい、通照の研究員採用は実現しませんでした。平等通照は平成5年(1993年)に90歳で亡くなられました。世が世なら、通照は筆者の大先輩となっていたはずであることを思うと、生前お会いする機会に恵まれなかったことは誠に残念です。
平等通照は昭和4年から善教寺第17世住職となりますが、その傍(かたわ)ら、国府台(こうのだい)高等女学校、日本大学、翠嵐高等学校、東京仏教学院等で教鞭も取ります。さらに、自身でも昭和37年に新羽幼稚園を設立して、園長として幼児教育にも取り組みました。
そうした多忙な中でも、平等通照は研究を続け、印度学研究所からは30冊近い著作を出版することになります。それらの著作は、インド文学やパーリ語の研究書などが多いのですが、その中でも、①『我が家の日泰(タイ)通信』(1979年)、②『菩提樹(ぼだいじゅ)の樹陰(こかげ)』(1980年)、③『沙羅(さら)の林』(1981年)、④『鐘は鳴っている』(1989年)などは、新羽地域の歴史や文化、風俗などの記録として読んでも興味深い本です。
①は、昭和15年から18年(1940~43年)にかけて通照がタイへ日泰文化研究所長として派遣されていた時の、新羽との往復書簡をまとめた本です。次第に戦争に巻き込まれていく新羽村の様子や、住職不在の善教寺での各種行事や梵鐘(ぼんしょう)供出(きょうしゅつ)の様子などが、その時々の手紙から読み取れます。②は、新羽幼稚園の季刊誌『菩提樹(ぼだいじゅ)』に連載した原稿から、寺や宗教・歴史に関係するものをまとめたものです。特に「第3章歴史」は、都筑郡の歴史、善教寺の歴史と歴代住職、幕末明治期の新羽におけるコレラの流行などが記されています。③は、同じく『菩提樹』から幼稚園に関する原稿をまとめたもので、昭和37年から56年まで20年間の幼稚園の歩みが分かります。④は、家族や自身の子供時代のことをまとめたもので、明治期から大正にかけての新羽地域の自然とそこに暮らす人々の姿が、自身の体験を通して生き生きと描かれています。
ちょっと余談ですが、善教寺は室町時代に池辺(いこのべ・都筑区池辺町)の地から新羽へ移転したと伝えられていますが、江戸時代からは境内に教覚寺(きょうがくじ)という小さな寺(寺中[じちゅう]といいます)を持っていました。大正12年(1923年)の関東大震災で建物は倒壊し、その跡地に新羽幼稚園の最初の本館が建てられました。教覚寺は、その後平成7年(1995年)に都筑区へ移転しました。第18世平等勝之(まさゆき)住職から、その本堂のデザインは大倉山記念館のイメージを基にしていると伺いました。
さて、平等通照氏の著作から、岡倉天心に関する興味深い話を見つけましたので、その話は次回に。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)
(2012年12月号)