第187回 大曽根地区 -地域の成り立ち、その2-
- 2014.07.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
大曽根地区は、昭和57年(1982年)に住居表示(第108回参照)が実施されてから、町名が大曽根一~三丁目と大曽根台に分かれました。それ以前は昭和2年(1927年)の横浜市編入の時から大曽根町(おおそねちょう)でした。さらにその前は大綱村大字(おおつなむらおおあざ)大曽根、明治22年(1889年)以前は、橘樹郡(たちばなぐん)大曽根村と呼ばれていました。
大曽根の地名の由来はよく分かりませんが、土地の形や性質から名付けられたようです。曽根とは、河川氾濫(かせんはんらん)で浸食(しんしょく)を受けながら残った丘、あるいは自然堤防、石が多く痩(や)せた土地といった意味があります。大は、その程度が甚だしいことを表す接頭語です。かつては、鶴見川の水害を受け続けた地域だったことが分かります。
地名の初出は、17世紀半ばに幕府が編纂した『武蔵田園簿(むさしでんえんぼ)』で、この時の村高は218石余でした。その後、鶴見川の土手の外に堤外耕地(ていがいこうち)を開発しましたが、明治の初めでも250石程でした。
大曽根地区の形は逆三角形をしており、北は鶴見川に接し、南西には大倉山丘陵を挟んで大倉山一、二、六丁目と接し、東には東急東横線、綱島街道(東京丸子横浜線)が走り、樽町(たるまち)に接しています。
大曽根地区は、大倉山丘陵の北側斜面に谷戸(やと)(谷間地形)が並んでいます。東横線付近から、たけ武田谷戸(たけだやと・大谷戸[おおやと])、大乗寺谷戸(だいじょうじやと)、中谷戸(なかやと)(中の谷戸)、殿谷戸(とのやと)、稲荷谷戸(いなりやと)と続いて、北西の端に突き当たります。
殿谷戸に住む冨川家(ふかわけ)の伝承によると、小机城代の笠原越前守信為(えちぜんのかみのぶため)の息子能登守康勝(のとのかみやすかつ)の弟、笠原平六義為(へいろくよしため)が文明10年(1478年)に小机城中で生まれ、明応(めいおう)9年(1500年)に大曽根台の殿谷戸に砦を築き小机城の出城(でじろ)としたといいます。『新編武蔵風土記稿』にも同様の記述があります。冨川家は笠原義為の子孫になります。
大倉山丘陵の北側斜面で日当たりの悪い土地では、明治以降、天然氷の生産が盛んでした。関東大震災以降、天然氷の生産が下火になると、大乗寺谷戸の冨川善三(ふかわぜんぞう)さんは氷場(こおりば)を天然リンクに改装して、昭和3年(1928年)から約20年間、大倉山天然スケート場を営業していました(第85回参照)。
丘陵から離れた平地部は、かつて水はけの悪い湿地でしたが、用水路や悪水堀を作り水はけを良くし、地面を掘り下げた「ほりあい田」、その土を盛って高くした「ほり上げ畑」を作り、農業を行いました。そら豆や梨は大曽根の特産でした。平地部は、東から八幡(はちまん)耕地、榎戸(えのきど)耕地、根崎(ねざき)耕地などと呼ばれていました。
主要な道路としては、山裾(やますそ)に沿った根道(ねみち)、平地の中央を走る大海道(おおなみち)、鶴見川沿いの堤防道路がありますが、北西の角は丘陵が鶴見川に迫っているので道路は1本に集約されます。東側ではいずれの道も東横線の下を潜らなくてはならず、大型車の通行に難があります。道路事情のためか工場進出はほとんど無く、バス路線も綱島街道沿いを走るだけです。
大曽根地区の人口は、今年(2014)5月31日現在で5,313世帯、10,850人となっています。かつての大曽根村の人口は、江戸時代を通じて余り変わらず、家数40余戸、人口200人余りでした。度重なる水害に悩まされたので、昔の家は山裾の微高地に並んでいるだけで、平地部に家はありませんでした。
しかし、明治43年(1910年)の大水害の後、現在の場所に堤防が築かれました(大正堤)。その後昭和13年(1938年)にまた大水害があり、昭和27年(1952年)には現在の高さまで土盛りがなされました。この頃から平地部で公営や民営の住宅開発が進み、人口が急増します。昭和23年(1948年)には1,577人だった人口は、昭和45年(1970年)頃までには6倍以上も増加し、現在とほぼ同じになりました。現在、地域の大半は第1種低層住居専用地域に指定されています。工場や大規模集合住宅が少なく、戸建て住宅が多い、落ち着いた住環境を形成しています。港北区内では比較的高齢化率が高く、早くから高齢者福祉を中心に福祉活動が盛んな地域でもあります。
大曽根の鎮守である大曽根八幡神社は、これまで近隣から神輿(みこし)を借りて、隔年に例祭をしていました。平成23年(2011年)に大曽根神輿の会を立ち上げ、地域の皆さんからの寄付により、昨年ついに自前の神輿を購入しました。そろいの袢纏(はんてん)で神輿を担いで町内を練り歩き、地域のコミュニケーションを広げています。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所研究部長)
(2014年7月号)