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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第188回 日吉台地下壕の現在・過去・未来 -終戦秘話その17-

2014.08.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


今年で終戦から69年目を迎えます。港北区内には戦争中に日本軍が使用した施設が数ヵ所あり、これまでにもご紹介してきました。その中でも著名なものは、日吉の慶應義塾大学敷地内に造られた連合艦隊司令部地下壕でしょう。軽巡洋艦大淀(おおよど)に設置されていた連合艦隊司令部は、昭和19年(1944年)9月に日吉へ移転しました。レイテ沖海戦や沖縄での菊水作戦、戦艦大和の海上特攻命令などが日吉から下されたことは以前に書きました(第20回参照)。

この日吉台地下壕は、昨年(2013)3月、民有地部分にあった出入口が宅地開発によって破壊されてしまいました。貴重な遺構の一部が突如始まった工事によって失われた事は新聞各紙やテレビ番組等でも報道され、注目を集めました。残っていた4つの出入口のうち、1つは擁壁によってふさがれてしまいましたが、その後の工事は進んでおらず、残り3つは現状を留めているようです。戦争を後世に伝える手段が、人から物へと移行しつつある中で起こったこの問題は、近代の戦争遺跡を保存する難しさを私たちに改めて突きつけました。一度失われたものは二度と元に戻すことが出来ません。戦争遺跡を文化財として保護する動きは遅々として進んでいませんが、これ以上の破壊が進まないよう、日吉台地下壕以外の戦争遺跡を含め、全国で保存措置を早急に進めていくことが望まれます。

日吉台地下壕に関する話題としていまひとつ紹介しておきたいのが、慶應義塾大学の安藤広道先生を中心に進められた戦争遺跡に関する研究プロジェクトです。このプロジェクトは、慶應の日吉キャンパス一帯の戦争遺跡に関する調査、研究とその成果の活用に向けた基盤づくりを目的としたものです。平成23年度から25年度の3ヵ年計画で進められ、今年3月に研究成果報告書『慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究』が刊行されました。

プロジェクトでは、日吉キャンパス内にある連合艦隊司令部地下壕を中心とする地下壕群、箕輪町(みのわちょう)にある艦政本部地下壕、その他日吉付近の小規模地下壕のうち、入ることが出来る地下壕や現存する遺構等を全て測量調査しています。地下壕の中には現在は入れない個所や、破壊、撤去されてしまった個所もありますが、過去の調査成果等も踏まえて可能な限りその全体像を提示しています。地下壕に入ったことがない方でも、報告書に掲載された調査写真を通して戦争末期の海軍中枢機関が活動していたのが一体どのような場所だったのかを見るだけでも価値があると思います。

そして報告書には、過去に行われた関係者の聞き取り調査や執筆した手記の概要、掲載紙などをまとめたリストも掲載されています。このリストが今後の新たな研究成果と過去の研究成果の蓄積を結ぶ架け橋になることでしょう。報告書は港北図書館や、大倉精神文化研究所附属図書館にありますので、是非ご覧下さい。

ちなみに、筆者も報告書からひとつ発見をしました。第170回で、慶應義塾大学の日吉キャンパスで撮影された映画「あいつと私」をご紹介しました。昭和36年(1961年)に公開されたこの映画には、当時の日吉キャンパスの銀杏(いちょう)並木や校舎などの施設が随所に写っており、ストーリー以外の部分でも興味深い所が多いのですが、映像の中には地下壕の付属施設であるキノコ形の竪坑(たてこう)が2基写っています。竪坑は現在、テニスコートの脇に連合艦隊司令部地下壕のものが1基だけ残っており、実際に見ることが出来ます。筆者は映画の中に写っている2基の竪坑は、現存の竪坑と同じもので、どちらか1 基が過去に撤去されたのだと思っていました。しかし、報告書を見ていくと、テニスコート脇の竪坑はもともと1基しかなく、その一方で連合艦隊司令部地下壕に隣接する航空本部地下壕の竪坑が2基並んで存在していたことがわかりました。この場所は東海道新幹線の日吉トンネルの真上で、現在は慶應の自動車部練習場になっています。2基の竪坑は昭和50年(1975年)に行われた地上構造物撤去工事で失われてしまいました。その存在が確認出来る映画の映像は、今となっては非常に貴重なものといえるでしょう。

さらに日吉に関する話を続けます。中目黒にある防衛省防衛研究所には、陸海軍人の戦争中の日記や、戦後に記した手記などが多数所蔵されています。その中には、日吉の地下壕で活動していた軍人の手に拠る記録も含まれており、連合艦隊司令部が日吉に移転した際に司令長官だった豊田副武(そえむ)の日記などもあります。豊田は昭和19年5月3日から翌年5月29日まで連合艦隊司令長官を務めました。彼がその任を離れ、日吉を後にした日は奇しくも横浜大空襲当日にあたります。豊田の日記には司令部の日吉移転や横浜方面の空襲に関する記載もありますので、次回はそのご紹介をしましょう。

記:林 宏美(大倉精神文化研究所研究員)
(2014年8月号)

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