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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第190回 新幹線と第三京浜 -港北区域の変貌-

2014.10.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


今から50年前、昭和39年(1964年)10月1日に東海道新幹線が開通し、横浜線との交点に新横浜駅が開業しました。それまで、横浜線の菊名駅と小机駅の間には駅がありませんでした。現在の新横浜駅周辺は、鶴見川の氾濫原(はんらんげん)で、アシの茂る湿地でした。

神奈川区菅田町(すげたちょう)にお住まいだった斎藤虎松(さいとうとらまつ)氏(1900~1991年)は、著書『採卵随想(第6集)倖(しあわ)せの青い鳥は鶏(にわとり)だった』で、次のように書いています。「新幹線新横浜駅周辺は私ども子供の頃は低湿地。毎年近くの鶴見川氾濫で作物が駄目、持主は無収入ゆえ、地元の人はだれも相手にしなかった土地。当時、周旋屋(ブローカー)が冬の乾期によそ者を連れてきて見せる。安値に惚れて持ってみたものの、毎年の洪水で水が退かず、米は取れず小作米も入らず、飽きて損して捨て売り。次々と、何人も乾期にだまされては買い、損して売り、しまいには芦原(あしはら)と化し、蛇(へび)が多く棲(す)んでいたので「蛇袋(じゃぶくろ)」と言う名の地。それが新幹線建設、そして新横浜駅。最後にだまされて持ち続けた人が、坪5万円と夢のような高値に売れ...」。オフィスビルが林立する現在の様子とは隔世の感があります。

新横浜駅建設の頃から今日までの変貌の様子については、間もなく新横浜町内会から出版される『新横浜50年の軌跡』をご覧ください。

一方、第三京浜道路(国道466号線)は、東京横浜間を結ぶ第一京浜道路(国道15号線)・第二京浜道路(国道1号線)の混雑緩和策として計画されました。これは、昭和33年から34年(1958~59年)にかけて、「京浜間で特に道路の幅員が狭く交通混雑」(『第三京浜道路工事報告』)していた菊名町付近に、東京丸子横浜線(通称中原街道、綱島街道)のバイパスを通す案が検討されたことを発端とします。この案に代わって、昭和35年(1960年)12月に新道建設の事業計画が明らかになると、地元には何ら利益をもたらさないのに、逆に広大な潰れ地(道路用地に取得され耕作などが出来なくなった土地)が生じることは、営農上の死活問題になると考えられ、沿線地域では対策協議会を設置し、県へ反対の陳情などを始めました。しかし、昭和36年12月に国の事業許可が下りると、反対運動はしだいに条件闘争へと移行していきました。こうして、新幹線建設に続き、広大な土地が道路用地として買収されることになりました。

土地買収は、まず宅地、田、畑、山林などの地目毎に指数を決め、それに単価を掛けて微調整して金額を決める方法で進められました。港北区域の工事は、第二工事事務所が担当していました。昭和38年に土地買収問題が妥結すると、翌39年4月から工事が始まりました。それと並行して家屋、工作物、竹木等の移転や伐採などの補償交渉が進められました。神奈川区の例を見ると、その中に肥料溜(ひりょうだめ)という項目があることが注目されます。当時はまだ下肥(しもごえ・人糞)が重要な肥料であり、各地に沢山の肥料溜があったのです。港北区も同様だったはずです。

この第三京浜道路も、新幹線と同様に東京オリンピックに間に合わせることを目標としていましたが、若干遅れて昭和40年(1965年)12月に開通しました。

戦後の高度経済成長の波は、静かな農村だった港北区域にも押し寄せつつありましたが、当時はまだ駅前や幹線道路沿いだけでした。しかし、新しい鉄道や道路の敷設では、低湿地でも、道路の無い山の中でも、崖地のような土地でも用地買収の対象とされました。交渉に臨む地主(大半は農家)の対応は様々でした。新幹線の用地買収は昭和36年(1961年)に行われましたが、事前に民間会社が用地買収するという、いわゆる日本開発事件もありました。

環状二号線道路は、新横浜駅開業に合わせて、駅前から東側が開通しました。翌年には第三京浜道路の開通。横浜線も、長年懸案であった複線化の計画が進展し、東神奈川-小机駅間が昭和43年(1968年)に複線化されました。

昭和30年代後半から40年代にかけて、交通事情がよくなると、多数の工場が進出し、住宅や商業施設も増え、港北区域は農村から近代都市へと大きく変貌していきました。

鶴見川中流域に位置する港北区域の農地は、水害もたくさん受けましたが、肥沃な土壌で横浜市の穀倉としての役割を果たし、やがて高度な蔬菜(そさい)園芸や花卉(かき)園芸を経営する、都市近郊農業のモデル的存在となっていきました。都市化が進む中で、昭和43年、いわゆる新都市計画法が施行され、市街化区域と市街化調整区域の線引きが実施されると、港北区域の農家は都市農業へとさらなる変革を迫られます。その話はいずれ。

記:平井 誠二(公益財団法人大倉精神文化研究所研究部長)
(2014年10月号)

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