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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第192回 菊名地区(1) -地域の成り立ち、その3-

2014.12.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


地域の成り立ち第3回は、菊名(きくな)地区です。町名の菊名と同一地域と思われそうですが、菊名一~七丁目と菊名地区では範囲が異なります。

菊名一~七丁目は南北に細長い形をしており、南端に東横線の妙蓮寺(みょうれんじ)駅があり、北は菊名駅を越えて港北郵便局の先までです。区域はほぼ東横線の東側になります。古くは橘樹郡大綱村大字(たちばなぐんおおつなむらおおあざ)菊名でしたが、昭和2年(1927年)に横浜市へ編入され、神奈川区菊名町となりました。港北区になったのは昭和14年(1939年)です。菊名駅前の郵便局が「神奈川菊名郵便局」と呼ばれているのは、神奈川区時代に開業したからです。昭和55年(1980年)に住居表示(第108回参照)が実施されてから、町名が菊名一~七丁目に分かれました。

菊名の地名の由来には、①相模国(さがみのくに)三浦郡菊名邑(むら)の菊名一族が移住してきて開発したから、②蓮勝寺(れんしょうじ)の山号「菊名山」から名付けられたとの説があります。③「キク」は、「クク(包み込む)」「クキ(山の峰)」から転じたとの説もあり、菊名とは、丘がせり出し谷戸(やと)が入り込んだ地形から名付けられたとも考えられています。

一方、菊名地区は、菊名駅の周辺から新横浜駅北側のエリア、町名でいうと、菊名四~七丁目、大豆戸町(まめどちょう)、錦が丘(にしきがおか)、篠原北(しのはらきた)一、二丁目、新横浜一~三丁目を指します。

大豆戸町は、菊名町と同じく昭和2年(1927年)に横浜市に編入されました。それ以前は大綱村大字(おおあざ)大豆戸、明治22年(1889年)以前は橘樹郡大豆戸村でした。戦国期まで遡ると、武蔵国久良岐郡(くらきぐん)に属しており、「大豆津村」と書かれていたようです。地名の由来には、①師岡(もろおか)熊野神社に大豆(だいず)を献上した、②埼玉の大豆戸(埼玉県比企郡鳩山町[ひきぐんはとやままち])に住んでいた金子一族が移住してきて開発した、③崖のある地形を意味する「ママド」「マミド」が変化したもので漢字は当て字にすぎない、などの説があります。大豆戸町は菊名を挟んで東西の2 地区に分かれています。これは、江戸時代に、助郷(すけごう)の人馬負担を軽減するために耕地の部分を菊名村に分けたことによるとの話を聞いたことがありますが、筆者は未確認です。将来住居表示が実施されると2地区の町名はどうなるのでしょうか。

大豆戸町には、区総合庁舎、公会堂、保健所、消防署、警察署、神奈川税務署などの官公署が集中しており、行政の中心となっています。また、港北スポーツセンターもあります。

錦が丘は、かつては篠原村の字表谷(あざおもてや)の一部でしたが、東横線開通の頃に菊名分譲地として造成・販売された場所です。今上(きんじょう)天皇が皇太子として生まれたのを記念して、昭和9年(1934年)に区域の道路に桜335本(334本の説もある)と楓(かえで)100本を植えて、「錦ヶ丘」と自称するようになり、昭和46年(1971年)に正式な町名となりました。

港北区域は、かつては農村地帯でしたが、菊名駅周辺を端緒にして、東横線の各駅周辺から宅地化が進みました。横浜線は明治41年(1908年)に開通しましたが、当時菊名に駅はありませんでした。東横線は大正15年(1926年)に開業しますが、そのときに横浜線の下へ線路を通し、その交差する接点に作られたのが菊名駅です。

菊名分譲地など早くから宅地化が進み、昭和14年(1939年)に港北区が誕生するとき、区の名称を「菊名区」とする案もありました。仮庁舎も最初の庁舎も菊名駅周辺に作られています(第124回参照)。大倉精神文化研究所も、菊名駅西側の山の上が建設候補地になったことがあると聞きました。

早くから開発が進んだために、まとまった緑が少なくなっていますが、篠原城址緑地は歴史的にも価値のある緑として、「篠原城と緑を守る会」が結成されるなど、大切にされています。

菊名駅周辺は、駅のすぐ近くまで丘がせり出し、駅前に平地が少なく、開発が難しい場所でした。駅はすり鉢の底の様な一番低い位置に作られましたので、昭和44年(1969年)に改修して線路をかさ上げするまでは、少しの雨でも水が出て、東横線は線路が度々水没して不通になりました。平成3年(1991年)までは駅の渋谷寄りに折り返し運転用の仮設ホームが残っていました。

菊名駅は、今年4月から平成29年度(2017年度)までの予定で改良工事が始まりました。長年の懸案であったバリアフリー化や、JR駅舎の橋上化、横浜線と東横線の連絡通路の新設など、完成が楽しみです。この工事により、駅西口側が大きく変わるかも知れません。

紙面が尽きました。新横浜地域は、他地域とは異なる成り立ちを持ち、都心としての新たな位置づけがなされつつありますので、次回に。

記:平井 誠二(公益財団法人大倉精神文化研究所 研究部長)

(2014年12月号)

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