第193回 菊名地区(2) -地域の成り立ち、その4-
- 2015.01.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
明けましておめでとうございます。菊名地区には、新たな町名を付けて大躍進を遂げた地域があります。新横浜です。みなさま、新横浜町内会発行の『新横浜50年の軌跡』はもうご覧になりましたか。軌跡というより、奇跡と言いたくなるような50年間の変貌ぶりを、数多くの写真と解説で解き明かしています。
新横浜地域の歴史は、昭和39年(1964年)の国鉄(現JR)新横浜駅の開業から始まりました。駅周辺地域の字(あざ)を勝負田(しょうぶだ)といいます。地名の由緒は、古戦場趾だからとも、ショウブが自生するような低湿地だからともいわれます。その先、セントラルアベニューの周辺が字蛇袋(あざじゃぶくろ)。七巻き半しても尾が余るほどの大蛇が住み着いていたとの伝説があります。かつてはそのような土地でした。
新横浜の町名も駅名から付けられました。しかし、駅そのものは実は篠原町(しのはらちょう)にあり、新横浜の町内ではありません。ちなみに、菊名駅の横浜線ホームの大半は、篠原北二丁目です。
新横浜に無い新横浜駅ですが、開業当初は1日にこだま28本しか停車しなかったのが、やがてひかりが停まるようになり、平成20年(2008年)からは、のぞみも含めて全ての列車が停車するようになりました。この時、駅ビル「新横浜中央ビル」も完成し、キュービックプラザ新横浜がオープンしました。
新横浜駅の辺りは、篠原町、岸根町(きしねちょう)、鳥山町(とりやまちょう)、大豆戸町(まめどちょう)、新羽町(にっぱちょう)の5町が区域を接した場所でした。駅開業を切っ掛けとして、新幹線北側地域の区画整理事業が実施され、5町が接する辺りを切り離して、昭和50年(1975年)11月に新横浜一~三丁目が誕生しました。ですから、新横浜の歴史は、これら5町の歴史ともいえるのです。
小机(こづくえ)方面から東向きに流れてきた鶴見川は、横浜アリーナの北側辺りで鳥山川(とりやまがわ)と合流し、北へと直角に流れを変えます。ここを大曲(おおまがり)といい、昔はここからよく氾濫しました。篠原・大豆戸・新羽などの村々が境を接していたのですが、昔は堤防が無く、氾濫した鶴見川は度々流路を変えるために、人々は村境が分からなくなり困りました。『港北百話』によると、この時に目印として植えられたのが榎(えのき)で、巨木に育ち境榎(さかいえのき)と呼ばれました。その根本には、オサキ稲荷とか再会堂とか呼ばれる祠(ほこら)があったそうです。樹齢300年ともいわれたこの榎を、戦後河川改修のために切り倒そうとしたところ怪我人が出て、祟りだといわれたこともあります。現在は、2代目榎が300メートルほど上流側に移植されて街を見守っています。
新横浜一~三丁目は、新幹線、横浜上麻生線道路、鳥山川、太尾新道に囲まれた長方形の地区です。人口は今年(2015)11月30日現在で10,545人ですが、街が誕生した直後の昭和51年10月は341人でした。
街が発展した大きな要因は交通網の整備にあります。昭和40年(1965年)の第三京浜道路の開通、昭和45年(1970年)の環状2号線道路の延伸。そして昭和60年(1985年)には、市営地下鉄(ブルーライン)が横浜から新横浜まで開通しました。この年5月に新横浜町内会が誕生し、この頃から新横浜が急速に変貌していきます。オフィスビルやビジネスホテルの建設ラッシュが始まり、様々な施設も造られました。
平成元年(1989年)横浜市政100周年を記念して、横浜アリーナがオープンしました。杮(こけら)落としは、松任谷由実(まつとうやゆみ)のコンサートでした。これは当初からの計画であり、美空ひばりの公演を予定していたのが病状悪化で中止になり、ユーミンはその代役を務めたとの風説は誤りだと関係者の方から聞きました。
鳥山川の北側には、日産スタジアム、リハビリテーションセンター、ラポール等があり新横浜の発展と大きく係わっていますが、日産スタジアムが、最寄り駅は小机駅と宣伝しているように、これらの施設の住所は小机町ですので、城郷(しろさと)地区で取り上げましょう。
平成3年(1991年)には新横浜パフォーマンスが始まります。1町内会が主催しているとは想像も出来ないほどの規模と賑わいを見せる、地域最大のイベントに成長しています。
平成6年(1994年)にオープンした新横浜ラーメン博物館は、全国にフードテーマパークのブームを巻き起こしました。最近では世界を視野に外国人客への売り込みを強化するなど、今も進化し続けています。
何もなかった場所から交通の要衝となり、都市機能の整備と自然を取り入れた景観の整備が進み、横浜市全域の中でも「新横浜都心」の中核と位置づけられてますます期待が増しています。新横浜地域は、港北区域で最も元気な街であり、全国の新幹線駅の中でも一番大きく変貌した場所といえるでしょう。
記:平井 誠二(公益財団法人大倉精神文化研究所研究部長)
(2015年1月号)