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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第20回 終戦秘話2 日吉台地下壕

2000.08.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


まもなく55回目の終戦記念日を迎えます。戦争の記憶は次第に薄れていきますが、今年(平成12年)は先日沖縄でサミットが開かれましたし、忘れ去ってはいけないことと思います。

特に港北区には、太平洋戦争末期に重要な役割を果たした軍事施設がありました。慶應義塾大学日吉キャンパスの地下深くに掘られた地下壕がそれです。この地下壕は旧日本海軍の手により造られたものです。全国的に有名な地下壕は長野県松代(まつしろ)の大本営地下壕(だいほんえいちかごう)ですが、これは使用には至りませんでした。しかし、日吉台の地下壕は、昭和19年(1944)7月より突貫工事が始められ、ついに未完成のままで終戦を迎えるのですが、完成した部分には昭和19年9月から連合艦隊司令部や航空本部が移転し、レイテ沖海戦(昭和19年10月)や沖縄作戦(昭和20年3月~6月)の指令が行われ、戦艦大和(やまと)の出撃命令(昭和20年4月)もここから出されるなど、戦争遂行(すいこう)に重要な役割を果たしました。

連合艦隊司令部は、それまで巡洋艦大淀(じゅんようかんおおよど)の艦内におかれていましたが、戦局が厳しくなる中で、艦船の不足、警固の不安、場所の狭さなどの理由から、陸上に移されることとなりました。大倉山、玉川学園、横浜航空隊、日吉の4ヶ所が候補地となりましたが、結局日吉に決まりました。

地下壕は慶應キャンパスの地下に3ヶ所(長さは計2.63キロメートル)、東横線をはさんで西側の箕輪に1ヶ所(2キロメートル)造られました。工事は極秘裏に進められましたし、終戦後、直ちに慶應キャンパスは占領軍に接収されましたので、地下壕に関する記録はほとんど残されていません。ちなみにキャンパスが返還されたのは昭和24年(1949)のことでした。

近年になり、関係者の尽力でやっとその実態が少しずつ解明されてきました。また、平成7年(1995)の文化財保護法の改正により、近代遺跡にも指定基準が広げられました。それを受けて、戦争遺跡の調査が進められており、日吉台地下壕も保存の動きが活発になりつつあります。

地下壕入り口の一つは、日吉台下の農家の庭先にあります。筆者も4月に内部を見学しました。ところどころに泥が堆積していたり、水が溜まっている所がありましたが、30~40センチの厚さのコンクリートによる頑丈な造りのせいか、何の手入れもしないままに半世紀以上を経ていながら、予想以上に原形をとどめていました。このような施設を造らざるを得なかった愚かしさ、その工事に駆り出された人々の悲惨さなど語り継がなければならないと思います。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2000年8月号)

  • 【付記1】 その後、慶應義塾大学により地下壕内が整備され、平成13年4月よりキャンパス内の入口から入ることが出来るようになりました。ただし、入場には、大学当局の許可と案内役が必要です。
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