第211回 新羽地区 -地域の成り立ち、その11-
- 2016.07.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
新羽(にっぱ)地区は港北区の西部に位置し、南側から東側へ鶴見川が流れ、川を挟んで小机町(こづくえちょう)、鳥山町(とりやまちょう)、大豆戸町(まめどちょう)、大倉山(おおくらやま)と接しています。北は新吉田(しんよしだ)、西側は区境で都筑区(つづきく)に接しています。かつて武蔵国都筑郡新羽村(むさしのくにつづきぐんにっぱむら)と呼ばれていた地域とほぼ同じです。
地区の東半分は平地で、現在は大半が準工業地域に指定されており、工場やマンションが林立していますが、かつては水田が広がっていました。
地区の西半分は、丘陵が南北に延びていて、亀甲橋(かめのこばし)のたもと、鶴見川岸まで突き出ています。市街化調整区域に指定されており、畑地や果樹園、新羽丘陵公園など豊かな自然が残されています。
明治5 年(1872 年)の新羽村は、戸数174 戸、人口1,013 人でした。明治22 年(1889 年)、新羽村は吉田村(よしだむら)、高田村(たかたむら)と合併して新田村(にったむら)となり、新田村大字(おおあざ)新羽と呼ばれるようになりました。そして、横浜市に編入された昭和14 年(1939 年)に新吉田・高田と分かれて、新羽町となりました。
昭和52 年(1977 年)に開校した新羽小学校の校章は、周囲の3 本線で地域のシンボル鶴見川を表し、下部の笹の葉は学校周辺にある美しい竹林を表しています。鶴見川と丘陵部の豊かな自然環境をデザインに取り込んでいます。
新羽の地名の初出は古く、正応(しょうおう)3 年(1290 年)の鶴岡八幡宮文書といわれています。地名の語源は、①鶴見川の舟運(しゅううん)で荷物を揚げ下ろしする荷場(にば)が転じたもの、②「新」は開墾地、「羽」は端で山の端、丘が鶴見川に向かって突き出ている地形から、丘陵の端に開墾した土地との説があります。どちらにしても、鶴見川に縁がある地名でしょう。
新羽地区は、長い間にわたって鶴見川から恩恵と被害を受けてきました。
水害多発地帯だった新羽地区は、「蛙(かえる)の小便(しょうべん)でも水が出る」といわれたほどでした。その一方で、洪水は上流から栄養豊かな土をもたらしました。新羽から新吉田にかけて広がっていた農地を三隅耕地(みすまこうち)といいますが、横浜を代表する穀倉地帯で、多くの米が穫とれました。水害が無い年は豊かな実りがあり、新羽村の生産高は周辺地域の中で最も高く、「新羽千石(せんごく)」という言葉も残っています。
昭和初期から盛んになった丘陵部での花卉(かき)栽培は洪水の被害を受けないので、農家に生活の安定をもたらし、現在でも新羽地区の地場産業として定着しています。花の里づくりの会もあります。
一方で、水害を無くすために、昭和22 年から27年(1947~52 年)にかけて鶴見川の改修を行い、曲がりくねった流路を直線に直しました。その工事をしていた昭和24 年(1949 年)に土地改良法が施行されたのを受けて、土地改良組合が組織され、農業の生産性を高めて合理化を図るために耕地整理事業が始まりました。しかし、時代は戦後復興から高度経済成長へと転換します。
昭和33 年(1958 年)に鶴見川沿いの平野部は準工業地帯に指定され、昭和36 年(1961 年)には米の生産調整も始まります。第三京浜道路の建設が始まると、工場進出が一気に進み、農地は工業地帯へと変貌していきました。用水路は役目を終えて排水路になりますが、下水道が普及するとそれも不要となりました。水路は埋め立てられ昭和61 年(1986年)から新田緑道(にったりょくどう)として順次整備・公開が始まり、平成22 年(2010 年)に約1.8 ㎞の全区間が完成しました。周囲には今も多くの工場が建ち並んでおり、緑道には、それらの工場から寄贈された古い機械や部品がオブジェとして飾られています。
さらに、平成5 年(1993 年)に市営地下鉄ブルーライン、平成7 年(1995 年)に宮内新横浜線道路(新羽駅以南)が開通すると、宅地化が進み、新羽地区は大きく変貌を遂げました。各駅周辺や幹線道路沿いにマンションが建設され、若者世代の増加が目立つようになり、今年5 月31 日現在の人口は、6,365世帯、13,117 人となっています。
北新横浜駅は、開業当初は新横浜北駅といいましたが、新横浜駅と勘違いされることが多く、平成11年(1999 年)に駅名を変更し、地名も北新横浜に改めました。駅周辺は、当初は空き地が広がっていましたが、最近では商業施設やマンション、オフィスビルが立ち並んでいます。
開発が進む平地と昔の面影を伝える丘陵部、その境には神奈川県道13 号横浜生田線が走っていますが、その道路際には蔵が数多く建ち並んでいます。地場産業だった寒中(かんちゅう)そうめんを貯蔵していた蔵もあります。また、伝統行事としては、中之久保(なかのくぼ)地区の注連引百万遍(しめひきひゃくまんべん)と、三谷戸(さんやと)(中井根[なかいね]、向谷[むかいやと]、久保谷[くぼやと])地区の廻り地蔵講が横浜市の無形民俗文化財に指定されています。
記:平井 誠二(公益財団法人大倉精神文化研究所研究部長)
(2016年7月号)