第213回 武相中学校と戦争 -終戦秘話その22-
- 2016.09.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
昭和17 年(1942 年)4月に神奈川県への設立認可申請中のまま、富士塚校舎(刀鍬舎[とうしゅうしゃ])で授業を開始した武相中学校は、5 月18 日に至って県から校地の再考と認可の先送りが伝えられました。創立者の石野瑛(いしのあきら)氏は千仞の谷(せんじんのたに)に落ちたような絶望的な気持ちになりましたが、これは青少年教育に最善の場所を見つけるようにという天の意であると受け止め、理想の学校を創ることを改めて心に誓います。夜は地図を眺めて思案し、昼は校地を探して駆け回った結果、5日後の5 月23 日、富士塚から南西へおよそ1 ㎞離れた篠原町(しのはらちょう)(現、仲手原[なかてはら])の丘の上に好適地を見つけます。この丘は当時、松風台(しょうふうだい)(嘯風台[しょうふうだい])と呼ばれていましたが、後に武相台と呼ばれるようになります。
この場所は、東京市芝区白金台町に住んでいた実業家松岡清次郎(まつおかせいじろう)氏の所有地でした。石野氏は、すぐに所有者の松岡氏を訪ね、以後折衝(せっしょう)を重ねます。そして6 月10 日までに2 万余坪の土地を学校用地とすることの承諾を得ました。これを受けて、石野氏は夜を徹して新しい計画書を作成し、翌11 日には神奈川県へ設立認可申請書を再提出します。早速視察にやって来た県の職員も、学校敷地としてこれ以上ない場所だとお墨付きを与えます。そして6 月24 日、学校はようやく設立が認可されました。
それから1 週間後の7 月2 日、午前10 時から富士塚校舎で開校式が行われ、午後には新校地での地鎮祭(じちんさい)が行われました。生徒たちも新しい校舎が建つことを大変喜びました。しかし、新校地は背丈以上の5、6 尺(約1.5~1.8m)のカヤが生い茂る(おいしげる)原野(げんや)だったため、こんな所に学校が建つのかと思った生徒もいたようです。地ならしは、先生・生徒・父母らも協力して作業をしました。カヤの他にも背の高いススキが茂り、芋のように太い根っこに鍬(くわ)やスコップの柄(え)が折れることもたびたびだったとか。
校舎の建築は、横浜市内で多くの学校建築を手がけていた渡辺愛次郎(わたなべあいじろう)氏に委嘱(いしょく)されます。物資不足のため、建築が制限されていた時代ですが、県から資材割当を受け、翌18 年(1943 年)4 月14 日に新しい校舎が竣工(しゅんこう)しました。
しかし、時は戦争の真っ只中です。校舎が完成し、学校設備も拡充していきましたが、あまり授業を行うことは出来ませんでした。生徒たちの多くは、工場への勤労動員、働き手を失った農家への援農にと駆り出されます。学校の留守を預かった一部の生徒たちも、学校警備や夜間の宿直、校地に作った約1万坪の農園で食糧増産のために農作業をしたり、鍬(くわ)を持っての防空壕掘りに追われる毎日を送ります。
昭和20 年(1945 年)に入ると空襲は日に日に激しくなっていきました。学校始まりの地である富士塚校舎は、武相台の新校舎完成後、東アジアの国々の言語や文化を教える東亜科(とうあか)の教室として使う予定でしたが、この頃には食糧営団(しょくりょうえいだん)に貸し出し、食料(主に缶詰)保管庫として使用されていました。しかし4月15 日の空襲で灰燼(かいじん)と化します。空襲は校舎のみならず、保管されていた食料も、石野氏の長年にわたる研究成果と資料も全て焼き尽くしました。5 月24日の空襲では武相台の校庭と農園が火の海になりました。5 月29 日の横浜大空襲では、家を失った生徒も多く、石野氏もこの時に岡野町の自宅を失いますが、幸いにして武相台の校舎は戦禍(せんか)を免(まぬ)がれます。
そして迎えた8 月15 日、学校には40~50 人の生徒が集まり、用務員室のラジオを外に出して終戦の詔勅(しょうちょく)を聞きました。終戦後は神奈川県内の中学校がしばらく休校する中、武相中学校は8 月18 日頃からいち早く授業を再開しました。
社会の大きな変化に戸惑いながらも、学校は新しい時代に向けて歩み出しました。時代の変化は、校章の改定にも表れています。開校時の校章は、八稜鏡(はちりょうきょう)に邪念(じゃねん)を断(た)つ刀(かたな)と勤労愛好・不言実行を表す鍬(くわ)を交差させた「刀鍬章(とうしゅうしょう)」(前回のイラスト参照)でしたが、昭和20 年12 月15 日、建学の精神である道義昂揚(どうぎこうよう)・個性伸張(こせいしんちょう)・実行徹底(じっこうてってい)をそれぞれ紫・青・丹(に)(赤)の3 色と2 つの正方形の重なりで表した「動静章(どうせいしょう)」に改められました。
旧制中学としてスタートした武相中学校は、戦後の学制改革を受けて、昭和22 年(1947 年)4 月1 日に新制中学校となり、翌年3 月には新制の武相高等学校設置が認可されます。その後の総合学園としての発展、スポーツでの活躍、研究者としての石野氏の人物像など、伝えたい話は山ほどありますが、誌面が尽きましたので、また別稿に譲ります。
学校が出来てから今年で74 年が経ちました。校内には、建学の精神が刻まれた碑と並んで石野氏の銅像が置かれています。武相台の丘の上には住宅が建ち並び、子供たちを取り巻く環境も大きく変わりましたが、石野氏のその温(あたた)かな眼差(まなざ)しの先には今も昔も、次代を担う生徒たちが建学の精神の下、学校生活を送る姿があります。
記:林 宏美(公益財団法人大倉精神文化研究所研究員)
(2016年9月号)