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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第231回 港北のお城と館 -その6、小机城の1-

2018.03.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


8.小机城

さらに『新編武蔵風土記稿』(以下、風土記稿と略称)を見て行くと、小机村の項に「小机城蹟」の記述があります。小机城は、江戸時代から港北区域で最も有名な城です。横浜でも一番有名な城であり、横浜で唯一、全国区の知名度を持つ城です。

神奈川県下では、日本100名城に選定されている小田原城が最も有名な城ですが、昨年4月6日(城の日)に続日本100名城が発表され、小机城と、小田原の石垣山城が選定されました。小机城は125 番ですが、この番号は北海道から沖縄県へと、都道府県順に付けられた通し番号であり、名城としての順位を表すものではありません。

さて、小机城のある丘を城山といいます。小机地区南側の丘陵部から、城山だけが鶴見川へ向けて突き出しており、その形が小さな机のようであることから、小机の地名が生まれたといわれています。その北側を流れる鶴見川は、河口からこの近くまで船が遡上することが出来ましたので、かつては舟運が盛んで小机にも河岸がありました。

ここに城が築かれた理由は、神奈川湊から内陸部へ通じる飯田道や神奈川道と、鶴見川が交わる交通の要衝を押さえようとしたものと考えられます。小机城の別名は、飯田道が通じていたことから飯田城といい、古い地名から根古屋城ともいいます。

小机城が歴史の表舞台に現れた最初は、文明10年(1478年)太田道灌の小机攻めです。この時より以前から城があったわけですが、築城年代は鎌倉時代とも室町時代ともいわれており、よく分かりません。前回佐々木高綱館で紹介したように、鳥山周辺は鎌倉時代から開発されていましたので、城山に小さな砦のようなものが築かれていた可能性はありそうです。史蹟名勝天然記念物保存協会神奈川県支部が昭和15年(1940年)に見学記会用に配布した手書き地図には、小机城から南西に延びる鎌倉街道が記されています(第111回参照)。

小机城には、太田道灌の時代と小田原北条氏の時代と、2つの顔がありますので、2回に分けて見ていきましょう。

(太田道灌の小机攻め)

関東管領として権勢を振るっていた上杉氏は、やがて山内・扇谷の両家に分かれて一族で抗争を始めました。さらに文明8年(1476年)、山内上杉氏の家臣長尾景春が家督争いの不満から主君に反乱を起こし(長尾景春の乱)、関東は下克上の社会へと移っていきます。この頃の小机城は長尾景春方に属する城だったようですが、城主が誰だったのかは不明ですし、郭の配置(縄張り)も分かりません。

太田道灌は、長尾追討のために挙兵しました。文明10年、長尾に味方する矢野兵庫之助や小机弾正、豊島泰常たちが小机城に集結すると、それを太田道灌が攻めます。江戸城から南下してきた太田道灌は、早渕川を越えたところで吉田城を攻め落とし、文明10年2月6日新羽の尾根の南端にある亀甲山に陣を張ったといわれています。吉田城と亀甲山陣地については、回を改めて紹介しましょう。

太田道灌は戦上手で知られていましたが、小机城は守りが堅く攻めあぐね、攻防は2ヶ月に及びます。この時、自陣の兵士を鼓舞するために詠んだとされるのが「小机は先手習いの初にて、いろはにほへとちりぢりになる」(風土記稿)の歌です。この歌に奮起した兵は、4月10日に城を攻め落としました。

寺子屋で読み書きを習う子供は、筆記用具を持ち小さな机(座卓)を背負って通ったそうです。子供でも持てる小さな机と、小机の地名を掛けています。手習いとは、習字のことです。入門して最初に習うのは、「いろはにほへとちりぬるを...」の48 文字です。最も基礎となるいろはの練習と同じくらい簡単に敵の軍勢を散り散りに出来ると詠ったのです。

この歌が詠まれた場所は、小机城の南側、神奈川区羽沢町にある硯松の辺りといわれています。しかし、なぜそこで詠んだのかよく分かりません。

実はこの歌、風土記稿よりほんの少し前に編纂された随筆「耳嚢」にも記されているのですが、結句が「ちりぢりにせん」となっています。

小机攻めに関するほぼ唯一の記録は、太田道灌が2年後に書いたとされる手紙「太田道灌状」です。そこにこの歌は記されていません。いくら調べても、この逸話の典拠は江戸時代を遡ることが出来ないようです。本当に太田道灌が詠んだのでしょうか?

下山治久氏は、有隣新書『横浜の戦国武士たち』で、「横浜の戦国時代は、太田道灌が小机城を攻めた文明10年から始まるとも言われている」と書いています。謎に包まれた小机城ですが、室町と戦国を分ける、時代の画期となった舞台だったのです。

記:平井 誠二(公益財団法人大倉精神文化研究所所長)

(2018年3月号)

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