第236回 駒林神社の石垣
- 2023.12.01
下線部は掲載時と文章が異なっています。本稿を参照・引用される場合は、『楽遊学』(港北区区民活動支援センター情報誌)の掲載号を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
NHK大河ドラマ「どうする家康」がまもなく最終回を迎えます。江戸幕府の徳川将軍家の居城といえば江戸城です。港北区内には往時の江戸城を垣間見ることができる場所があるのをご存じでしょうか。その場所は日吉本町にある駒林神社です。
『港北区神社誌』(昭和62年)によれば、駒林神社は元は旧中駒林村の天神社で、明治15年(1882年)4月に天照大神と天満大神を合併、大正3年(1914年)12月に八幡神社、十二天神社、熊野神社、妙義山神を合併したとあります。
駒林神社の「駒林」は日吉本町の旧村名で、文明18年から19年(1486~87年)の紀行文『廻国雑記』に登場するのがその初出とされます。地名の由来は①源頼朝が当地で白馬を献上されたことを喜んで「駒林」という名前を与えられたという説、②当地は駒(馬)がよく育ったので「駒栄えし地(こまはえしち)」が転じて「駒林」となったという説があります。
駒林村は明治22年(1889年)に日吉村大字駒林となり、昭和12年(1937年)の日吉村の横浜市編入によって神奈川区日吉本町となりました(昭和14年4月より港北区)。行政地名としての「駒林」はこの時になくなってしまいましたが、今も駒林神社や駒林小学校にその名を留めています。
さて、そろそろ本題に入りましょう。駒林神社は小高い丘の上にあり、社殿へ向かう石段は天神坂と呼ばれる坂道に面しています。神社のある丘の法面は石垣になっており、石垣のちょうど真ん中あたりに石段があって、その脇には「村社 駒林神社鎮守」と刻まれた大正2年(1913年)10月建立の標柱が立っています(写真①参照)。そして標柱から少し右に進んだところの石垣に、次のような文言が刻まれた銘板があります。
石垣工事記 奉納 牧野亀治郎 氏子一同
石材 この石は徳川家江戸に築城の際各藩より献納した
伊豆石で桜田会館建設の際に発掘した外濠の石です。
昭和三十九年十月吉日(後略)
この説明から、石垣には江戸城外濠の石が使われていることがわかります。伊豆石は伊豆半島やその周辺から産出される石で、質が良く、地理的に海上輸送もしやすかったことから、江戸城の石垣には伊豆石、中でも硬質の安山岩が多く使用されました。
石には献納した大名と思しき刻印があるものも見受けられます。中でも折敷(神事や食膳に使うお盆を模した八角形の形)に「三」の字をあしらった【写真ア】の刻印と、【写真イ】(〇の中に「ひ」)の刻印2種が多く見られ、それぞれ豊後国臼杵藩の稲葉典道と筑後国柳川藩の立花宗茂と比定されています。また『ヨコハマ散歩』(森篤男、昭和48年9月第3版、横浜市観光協会)では、【写真ウ】(〇の中に「水」「m」「幡」)といった刻印について記載があります。筆者も実際に見に行きましたが、上記2種以外の刻印があるのは何となくわかるものの、見方が甘いのか、風化のせいか、細かい部分の判別はつきませんでした。
また、ショベルカーのショベルの先のような模様のついた石も複数見られます。これは矢穴技法と呼ばれる方法で石を割った跡です。矢穴の「矢」は楔型の工具で、矢穴はこの矢を差し込むためにノミと金槌で開けられた穴のことです。矢穴の跡は機械のなかった時代に石を加工するため、一つ一つ人の手で彫られた跡だと思うと、その労苦が偲ばれます。
刻印や矢穴だけでなく、石の表面を直線状に削った「すだれ」の細工を施した石などもあり、限られた範囲ながら石垣の面白さを堪能できます。写真②から皆さんもぜひ探してみて下さい。
ちなみに刻印などのある石は、石垣の上の方にはあまり見られません。天神坂を通る人が気づくように配置したのでしょうか。
しかし、なぜ江戸城外濠の石が駒林神社に使用されることになったのか、そこには銘板の説明に名前が登場する「牧野亀治郎」という人物が関わっているようです。また、石垣の石の発掘場所とされる「桜田会館」についても踏み込みたいところですが、紙面が尽きましたので、詳細はまた来年に。どうぞよい年の瀬をお過ごしください。
記:林 宏美 (公益財団法人大倉精神文化研究所図書館運営部長兼研究員)
(2023年12月号)