第238回 戦前にあった割烹旅館東京園と『夢痕録』
- 2024.10.01
本稿を参照・引用される場合は、港北区区民活動支援センター情報誌『楽遊学』第313号(令和6年10月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
去る8月18日、イトーヨーカドー綱島店が42年4ヶ月の歴史に幕を下ろしました。この一帯はかつて温泉旅館街でしたが、昭和50年代に再開発によってモール商店街へと生まれ変わりました。その核店舗として誘致され、昭和57年(1982年)3月27日に開店したのがイトーヨーカドー綱島店でした。ヨーカドーはモールの中心であるとともに、綱島が温泉の街から変化していった時代を象徴する存在でもありました。跡地はどうなるのでしょうか。今後の行方が気になります。
さて、そのヨーカドーのあった辺りに戦前の東京園があったことをご存じでしょうか。このことは、地域インターネットメディアの『横浜日吉新聞』で、今年5月7日に公開された記事「戦前は西口ヨーカドー付近にあった「東京園」、綱島温泉をめぐる3つの意外な歴史」で紹介されましたので、ご覧になった方もいらっしゃるでしょう。
東京園といえば、綱島街道沿いの黄色い建物の温泉施設で、東急新横浜線の工事のために平成27年(2015年)5月で無期限休業となったことが思い出されます。この場所には元々昭和2年(1927年)に東急が開業した綱島温泉浴場があり、戦後の東京園はその建物を譲り受けて開業したことは知られていますが、それ以前の歴史はあまり知られていませんでした。しかし、戦前の綱島温泉の案内には確かに「東京園」が載っており、大倉精神文化研究所にも、昭和11年(1936年)頃に入手したと見られる割烹旅館東京園の案内があります。
東京園の創業者は中村忠右衛門という人です。中村忠右衛門は号である照翁の名で『夢痕録』(写真①)という自伝を執筆しています。本書は横浜市中央図書館で所蔵していますが、号を著者名としているせいか、その存在はこれまで注目されていなかったようです。本書の端書を見ると、執筆の動機として「今年74歳、結婚50年の記念に何にか書きのこしたいと考えて、筆をとった」とあり、本編は「昭和29年仲秋 東京園にて記す」と締めくくられています。
巻頭には昭和13年(1938年)の大洪水記念に撮影した割烹旅館時代の東京園(写真②)や、旧綱島温泉浴場の建物を譲り受けて開業した頃の東京園での家族写真など、貴重な写真が掲載されており、戦前の東京園についても書かれていました。
元々教員だった中村氏が綱島で旅館を始めたのは、東京深川区(現、江東区)にあった細民(貧民)学校の霊岸小学校で、皇后陛下の御台臨に際して6年生の御前授業を担当したことがきっかけでした。その時の「細民の子弟を完全に教育を受けさせるように」という御下問に答えるため、貧しい人々やその子どもたちが働く花柳界(芸者の集まる社会)に身を投じ、彼らとともに生きて恵まれない生活に救いの手を差し伸べたいと考え、料亭を開業する決心を固めたといいます。また一方で、当時の教員としては高齢となり、学校教育から隠退する好機だという判断もあったようです。
割烹旅館東京園は、建物建設のために借金で準備した前渡金を詐欺師に奪われるといった苦難に遭いながらも、昭和7年(1932年)の暮に開業し、翌年の2月11日、12日に開店披露の宴を行ったそうです。開業後、最初の春となった昭和8年(1933年)4月には、綱島の桜と桃が赤い毛氈(敷物)を被ったように美しく咲き、客室はもちろん、庭に設けた客席まで芸妓が一杯の満員盛況だったとあり、綱島の往時の賑わいが偲ばれます。中村氏もその繁盛ぶりに苦難を重ねた暗い影は消え、大多忙も苦にならず喜び勇んで働いたそうです。
綱島の地を選んだ理由については詳しいことは書かれておらず、「まず土地を現在の綱島に予定した」とあるのみでした。そこは少し残念です。
割烹旅館東京園はその後、「波乱万丈を極めて建てた東京園は寮に提供しろという戦時中のオエラ方の一声で吹飛んでしまった。この身の代金三十万円也は浪人生活三年間、私の足部負傷、倅の出征などで消えてなくなり(以下略)」とあります。旅館は戦時中に30万円で買い上げられた形になってしまったようです。
寮として提供させられた東京園、ここを実際に使用したのが、岩手県から学徒勤労動員で川崎の木月にあった東京航空計器の工場に配置された水沢高等女学校(現、岩手県立水沢高等学校)の学生たちでした。
話は尽きませんが紙面が尽きました。勤労動員の話、『夢痕録』に記された戦後の東京園の話は、また次回に。
記:林 宏美 (公益財団法人大倉精神文化研究所図書館運営部長兼研究員)
(2024年10月号)
写真① 『夢痕録』
写真② 割烹旅館時代の東京園