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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第239回 学徒勤労動員の寮となった東京園 ―終戦秘話その26―

2025.04.01

本稿を参照・引用される場合は、港北区区民活動支援センター情報誌『楽遊学』第316号(令和7年4月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 前回、東京園の創業者中村忠右衛門が晩年に照翁の名で記した『夢痕録』から、割烹旅館だった戦前の東京園の歴史について紹介しました。今回はその続きです。

 昭和18年(1943年)10月、綱島の温泉旅館は組合の自発的申合せにより一斉廃業し、勤労者の宿舎として提供することになりました。『夢痕録』にも、旅館東京園を寮として提供したことが書かれています。これについて同書に詳細は書かれていませんが、東京園は昭和20年(1945年)2月から、学徒勤労動員で岩手県からやってきた水沢高等女学校(現、岩手県立水沢高等学校)の女学生たちの寮となりました。このことは、学徒勤労動員について調査されている北海道大学名誉教授の逸見勝亮先生から、研究所へ問い合わせがあったことからわかりました。

 水沢高女の女学生たちは、東京園とその隣の里乃家に分宿し、川崎市木月(現、川崎市中原区木月住吉町)にあった東京航空計器の工場へと通っていました。この勤労動員については『こころに生きる六十日―水沢高女東航学徒動員の記―』(水沢高等女学校第20・21回卒業生、昭和61年)という記録集が刊行されていますので、ここから当時のことを辿ってみましょう。

 彼女たちは昭和20年2月25日に午前1時に鉄道で水沢を出発しました。遅延や空襲もあり、綱島へ到着したのは夜11時、その日は二・二六事件以来という9年ぶりの大雪でした。綱島駅から東京園があった旧イトーヨーカドー綱島店付近までは徒歩10分程度ですが、一行は初めて訪れる土地の暗い雪道の中を迷いに迷い、「東京園」の看板を見つけて何とか寮に辿りついたそうです。

 東京園はとても大きな旅館で、お風呂も大きく立派なものだったと書かれています。しかし、当初週二回という話だった入浴は帰郷までの二ヵ月間でたったの二回。一回目は東京園のお風呂でしたが、薪がなく湯も少ないうえに時間も限られており、二回目は町の銭湯でしたが、人が多いうえに湯も少ないので、立ったまま膝までしか入浴できませんでした。

 勤務日の食事は三食とも工場で、休日の食事は寮で手持ちの米を炊き、味噌汁と配給の缶詰がおかずだったそうです。空襲等で出勤出来ない日は会社からバケツで運ばれたおにぎりが配給され、寮での食事提供はありませんでした。

 ただ、休日の寮生活は穏やかで、時には近くの鶴見川堤防に集まって合唱やおしゃべりをしたり、買い物に出かけたりと、女学生らしい時間もあったようです。「寮の近くの土手から眺めた色鮮やかな桃の花と、天高く、くっきりと浮いた富士山の美しさは40年経た今も瞼に心に残って忘れない」といった回想もあります。

 しかし、生活は穏やかなばかりではなく、寝る前は非常食の入った救急袋、靴、防空頭巾を枕元に置き、服を着たまま警報の出ないことを願って眠りに就く日々でした。

 願い空しく空襲があると、東照寺の裏手にあった防空壕に避難しました。比較的近距離ではありましたが、空襲が続くようになると、一晩に何度も起こされるので、大変な苦行になったといいます。

綱島の防空壕は町の住民全てを収容出来るもので、固い粘土層をくりぬき、大きく堅固そうなものだったそうです。記録集には、戦後40年を経て東照寺のご住職に聞いた話として、この壕は陸軍が掘ったと記されています。

 防空壕については『夢痕録』にも記述があります。同書によれば、綱島の防空壕は民間で掘ったものと、軍が掘ったものの2種類があったようです。そして前者は昭和19年に中村氏が「敗色濃厚だという観点」で必要性を訴え、官庁側の反対を説き伏せ、費用も自ら集めて掘らせたもので、綱島町民は警報と同時にこの壕へ避難したので負傷者は出なかった、と述べています。

 一方、軍の壕はその翌年に掘られたもので、当時の兵隊たちは銃も靴もなく、食料も充分でないために、農家から食べ物をもらうことと防空壕を掘ることが日課となっていたそうです。中村氏が壕の必要性を主張した時には「非国民」と罵られたものの、1年後には慌てて防空壕を掘り始めたので、その様子を苦笑しながら眺めたと記しています。

 彼女たちの働く東京航空計器の工場は、昭和20年4月15日の川崎大空襲で全焼しました。寮から工場へは東横線で通っていましたが、空襲の翌日は不通だったため、徒歩で出勤し、工場の焼け跡の片づけの手伝いに行ったそうです。工場へ向かう途中、「日吉は穴だらけ」だったという回想もあります。

 その後も、毎日工場の焼け跡の整理が続きました。仕事はないが空襲はある、身の危険を感じる日々の中で、学生たちは帰郷を考えるようになります。引率教官も学校・会社・監督官庁に帰郷を掛け合いましたが許可は得られず、最終的には自身の責任で帰郷を断行、4月26日夜6時半頃に寮を出発し、翌27日に岩手へ帰り着きました。

 余談ですが、筆者の義理の祖母は岩手の出身でした。当時は摺沢家政女学校(現、岩手県立大東高等学校)の学生で、水沢高女の女学生とともに同じ東京航空計器に勤務していたようです。川崎大空襲では摺沢家政の寮も全焼しており、直接の伝聞ではありませんが、祖母も激しい空襲の中を必死に生き抜いて、岩手に戻って来たらしいとのことでした。

 戦後の東京園まで話が及びませんでしたが、筆者としては東京園と水沢高女のつながりを調べる中で、偶然にも祖母の戦争体験を知ることとなり、不思議な縁を感じています。今年の8月で終戦から80年。戦争は決して過去の出来事ではなく、私たちの今とも深く結びついているのだと改めて感じました。

記:林 宏美 (公益財団法人大倉精神文化研究所図書館運営部長兼研究員)

(2025年4月号)

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