第26回 大倉山は図書館から始まった-大倉精神文化研究所附属図書館-
- 2001.02.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
区内には、前々回に取り上げた港北図書館の他に、一般公開している図書館がもう一館あります。大倉精神文化研究所付属図書館がそれです。昭和7年(1932)4月9日、研究所開設の日に、研究所本館(大倉山記念館)内に開館しました。専門図書館として全国的にも重要ですし、公共図書館としては県下でも古い図書館の一つです。
創設者大倉邦彦(おおくらくにひこ)は、心の修行や教育のために必要な図書を集めて、多くの人々に利用してもらいたいと考え、大正14年(1925)頃より図書館の建設を思い立ちました。そして東京の目黒に敷地を購入しますが、昭和3年(1928)になり太尾(ふとお)の丘の上に場所を移しました(第16回参照)。その頃より、図書館建設の構想は研究所建設へと変わり、図書館はその付属施設となりました。しかし、図書館経営はその後も大倉にとって重要な事業であり続けました。そのためでしょうか、建設当初から大倉精神文化研究所は、地元の人から俗に「図書館」と呼ばれていました。つい一昨年(1999)のことですが、私自身も地元の方が研究所のことをいまだに「図書館」と言われるのを聞いたことがあります。
図書館は、開館当初から外部利用者へ無料で公開されていて、学生でも学校の紹介があれば利用できました。戦後一時閉館しましたが、昭和21年(1946)10月から再開しました。当時、県下でも横浜市立図書館に次ぐ規模を持っていた研究所図書館は、学生や受験生で賑わいました。昭和22年(1947)度の一日平均閲覧者はなんと439名でした。多くの人が向学心に燃えて山の上に登ったのでした。また、神奈川県図書館協会は昭和22年3月に大倉山で発会式を行い、初代会長には、研究所長兼図書館長だった上田辰之助(うえだたつのすけ、日本学士院会員)が就任しています。
このように、研究所図書館は戦後順調なすべり出しをしましたが、研究所本体の財政難の影響で、昭和23年度からは閲覧料の徴収をせざるを得なくなりました。それでも自主運営はしだいに困難となり、昭和25年(1950)から35年(1960)までは国立国会図書館の支部図書館となりました。昭和35年からは再び研究所附属図書館となり、以後は自主公開を続けましたが、再び財政難となり、昭和42年(1967)9月からは週に2日間、研究者のみへの開館となりました。
図書館の入っている研究所本館(横浜市大倉山記念館)が昭和56年(1981)に横浜市へ寄贈された後、大倉精神文化研究所附属図書館はその運営体制を整えて、昭和63年(1988)5月より再び無料で一般公開されて現在に至っています。
蔵書は、大倉邦彦と秘書の原田三千夫(はらだみちお、第5回参照)が大正15年(1926)からヨーロッパの図書館等の視察旅行に行き、イギリス、フランス、ドイツ等で直接買い付けた8600冊の洋書に始まります。最初から世界的な視野で集書が始められたのです。平成13年(2001)1月現在では哲学、宗教、歴史、文学などの図書や雑誌が入門書から専門書まで約85,000冊そろっています。また、江戸時代の古文書(こもんじょ)や木版本(もくはんぼん)などもあります。おもしろいところでは、桜吹雪で有名な遠山の金さんこと、北町奉行遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと)の役宅で部下の者が記録していた日記などもあります。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2001年2月号)