第31回 お中元には寒そうめん
- 2001.07.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
ボーナスも支給され、今年もお中元のシーズンになりました。お中元の由来ですが、中国では正月15日を上元(じょうげん)、7月15日を中元(ちゅうげん)、10月15日を下元(かげん)といい、あわせて三元(さんげん)といいました。これが日本にも採り入れられました。やがて中元は盂蘭盆会(うらぼんえ)と結びつき、盆前の贈答習俗がお中元となりました。ちなみに、地域により異なりますが、現在では7月15日を過ぎると暑中見舞い、立秋(りっしゅう)後は残暑見舞いとなります。
さて、お中元は、麦の収穫の直後になりますから、昔は小麦粉・そうめん・麩(ふ)などの麦製品を贈る例がよく見られました。港北区域でも特に新田(にった)地区はそうめん生産が特産品として有名でした。区域は米作を中心とした農村地帯でしたが、鶴見川水系の氾濫(はんらん)により苦しい生活を強いられていました(第9回参照)。そこで、冬の農閑期の副業として、寒そうめん(寒中そうめんともいいます)を造り始めたのです。
当初は寒の内(1月5日頃~2月3日頃)に製造していましたが、後に需要が増加してからは11月から翌年3月にかけて製造していました。作業は、厳寒の深夜1時頃から起き出して、夕方5時頃までかかる重労働でした。造り方は、『港北百話』にくわしく記されていますので省略しますが、2日がかりで造り、その後蔵の中に入れて熟成させました。
区域でのそうめん造りの始まりは、『港北区史』によれば、宝暦年間(ほうれきねんかん、1751~64)に遡ると言われています。古い史料には、北綱島村の百姓又右衛門家(またえもんけ)が明和(めいわ)4年(1767)に人を雇ってそうめんを造っていた記録があります。また、太田南畝(おおたなんぽ)は、著書『向岡閑話(むこうがおかかんわ)』の中で、文化6年(1809)に小机村でそうめんを造っていたことを記しています。また、『都筑の民俗』によれば、江戸時代に物売りの旅人が病気になっているのを表吉田の加藤という名主が助けて、そうめんの作り方を教えてもらったという由来話も残っています。
このように、そうめん造りは江戸時代中期に始まり、やがて地域の特産品となり、明治45年(1912)には新羽・吉田にそうめん製造家が18戸、大正期で新羽に12戸、吉田に11戸、高田に1戸ありました。区域には、七夕(たなばた)をソウメン節供といい、嫁がそうめんを持って実家に帰ったという言い伝えもあります。
蔵の中で熟成されたそうめんは、田植えの終わった6月下旬に蔵から出され、太尾河岸(ふとおがし)まで手車で運び、そこから舟に乗せて鶴見川を下り(第7回参照)、東京湾に出て神田に陸揚げされました。寒そうめんは、本白髪・富士雪・志ら糸・万国一・玉椿・志ら梅・初雪など様々な銘柄が付けられ、江戸時代から幕府御家人(ごけにん)や商家の中元用の贈答品として珍重され、明治以降も主に東京方面で販売されました。
しかし、昭和初年の恐慌(きょうこう)により生産は中止され、以後造られなくなったそうです。前回紹介した綱島の日月桃(じつげつとう)のように、地域の特産品として寒そうめんが復活すると嬉しいと考えるのは筆者だけでしょうか。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2001年7月号)