第32回 終戦秘話-その3- 日誌が語る戦争の日々
- 2001.08.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
筆者の勤務する大倉精神文化研究所には、大正14年(1925)の設立準備の時からの日誌を初めとして多数の資料が残されています。今回は、その中から戦争関連の記事を読んでみましょう。
まず、開戦の昭和16年(1941)12月8日には「米、英両国ニ対シ、宣戦布告ノ大詔(たいしょう)降ル。皇軍勇躍(ゆうやく)、陸ニ海ニ敵ノ機先ヲ制シ絶大ナル戦果ヲアグ。」の記事があります。
開戦前には、昭和16年10月12日「本日ヨリ防空訓練ニ入ル」の記事があり、その翌々日には防火用水槽4個を備え付けています。訓練は21日に終了しています。しかし、庶務日誌は、毎日の所長の動向、来訪者、事業活動など研究所内のことを記録するのが目的ですから、以降しばらくは戦争関連の記事は見あたりません。
昭和17年(1942)2月18日には、シンガポール陥落(英軍降伏は15日)を祝し「大東亜戦争戦勝第一次祝典」の記事があります。これは、政府が戦意高揚のために開いた祝賀会で、国民に酒・菓子・あずきなどが特配されました。また、各地で旗行列が行われました。しかし、戦況は次第に厳しさを増していきます。
4月18日、米空母から発進したノースアメリカンB25十六機が初めて日本本土を空襲します。日誌には、「本日正午空襲警報アリ。米機帝都(ていと)外数ヶ所ニ来襲シ来ル。所員全員警戒ノ位置ニツク。」と記されています。この空襲を受けて、8月28日には、神奈川警察署で空襲時の待避施設構築の打合せ会が開かれています。しかし、その後は2年半ほど空襲はありませんでした。
昭和18年(1943)9月17日には、陸軍の東武軍演習が附近で行われたのでしょうか、見晴らしのよい大倉山記念館の塔屋を兵士10余名が使用しています。
昭和19年(1944)になると、日吉の慶応キャンパスに海軍の地下壕が掘られますが(第20回参照)、大倉山には海軍気象部がやって来ます。詳しくは別稿に譲りますが、四月から準備が進められ、9月1日に移転してきました。契約解除は終戦後の昭和20年(1945)8月31日のことです。この間に気象部が何をしていたのか、研究所には資料が全くありませんが、昭和20年頃の資料を見ると、気象観測の用紙の裏紙がよく使われています。
昭和19年6月頃から警戒警報発令の記事が頻出します。11月20日、21日には所員が防空壕を掘っています。この間、米軍はサイパン島上陸からマリアナ諸島へと進攻し、東京がB29の攻撃圏内に入り、いよいよ本格的な本土空襲が始まります。
サイパン基地からの初爆撃は11月24日です。日誌には「敵B29七十機帝都空襲(正午~午後二時半迄)」の記事があります。これ以降、空襲の記事が頻出します。
11月27日には「敵B29、四十機内外来襲(午正十二時卅分~二時半)」の記事があります。これは大倉山付近に来たものでしょうか。
12月11日には、「最近夜間空襲頻繁ナル」との理由から、夜間入浴を止めて、風呂の入浴時間を男子所員は午後1時~3時、女子と家族は3時~5時に決めています。
空襲の記事はその後も、12月3日、11日、12日、13日、14日、昭和20年1月9日にあります。これらの空襲では、横浜はさほどの被害を受けずに済みました。しかし、ついに大きな被害を出す時が来ます(以下次号)。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2001年8月号)