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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第37回 港北の有名人は?

2002.01.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


前回、横綱武蔵山のことを調べていて、気がついたことがあります。人物情報を調べるために、『神奈川県姓氏家系大辞典』(角川書店、1993年)を引きました。その中に武蔵山や、後援会の雑誌『武蔵山』を編集した、大綱村(おおつなむら)生まれの俳人飯田九一(いいだくいち)の名前も出てきます。しかし、飯田家には江戸時代に綱島寄場組合大惣代(つなしまよせばくみあいだいそうだい)を務めた助太夫(すけだゆう)、殖産興業(しょくさんこうぎょう)に努めた広配(ひろとも)、衆議院議員になった助夫(すけお)など他にも活躍した人物がいるのですが出てきません。

そこで、港北区域に関係した人物を全て抜き出してみました。同書には「神奈川県の人物」2000人が立項されていますが、区域関係者は、赤地友哉(あかじゆうさい、人間国宝の漆芸家で太尾町に居住)、朝田屋重作(あさだやじゅうさく、幕末の小机村名主)、飯田九一、磯野庸幸(いそのやすゆき、大豆戸村生まれで横浜文化賞受賞)、上田元俊(うえだもととし、駒林村領主の旗本)、加藤土師萌(かとうはじめ、「日吉窯」を築いた人間国宝の陶芸家)、北村季吟(きたむらきぎん、鳥山村領主で旗本・歌人)、木村吉永(きむらよしなが、妙蓮寺の鐘を作った鋳物師)、久志本常勝(くしもとつねかつ、菊名村領主で旗本)、久世広之(くぜひろゆき、小机領知行の大名)、佐野権太郎(さのごんたろう、日吉村出身の駅長)、鈴木政右衛門(すずきまさえもん、小机村長)、福嶋安五郎(ふくしまやすごろう、小机生まれ福嶋鉄工所社長)、武蔵山武と、この他に小田原北条氏支配下の小机城関係者に、市野弥次郎(いちのやじろう)、井出兵部(いでひょうぶ)、笠原重正(かさはらしげまさ)、笠原信為(かさはらのぶため)、曽根外記(そねげき)、中田加賀守(なかだかがのかみ)、北条氏尭(ほうじょううじたか)、北条氏光(ほうじょううじみつ)、北条氏康(ほうじょううじやす)の名が見えますが、以上合わせてもわずかに23名しかおりません。

2000人の1.5パーセントです。ちなみに、現在の港北区域の人口は29万人で、850万県民の3.4パーセントを占めています。あまり関係ありませんが、この割合なら、あと45人は立項されてもいいはずです。

たとえば、大島村(川崎市)の吉沢寅之助(よしざわとらのすけ)は桃の一品種「伝桃」の発見者として紹介されていますが、同様に新品種「日月桃(じつげつとう)」を発見・栽培し、綱島の桃を全国一にした南綱島の池谷道太郎(いけのやみちたろう、第15、30回)は出てきません。

思いつくままに挙げても、鷹場の野廻り(のまわり、第14回)を務めた大曽根の冨川八郎右衛門(ふかわはちろうえもん)や南綱島の池谷重兵衛(いけのやじゅうべえ)、新羽(にっぱ)の領主で旗本の若林六郎左衛門尉(わかばやしろくろうさえもんのじょう)、幕府に鶴見川治水の直訴をした大曽根の柴田米蔵(しばたよねぞう)などが有名ですし、寺子屋の師匠なら小机の飯田慈雲斉、箕輪の小泉文右衛門、師岡の鈴木政次郎、高田の尭応、吉田の山本金左衛門、新羽の小池真吾、太尾の冨川新蔵、綱島の小泉武左衛門、日吉の市野善兵衛、大曽根の原秀芳など60名以上の名が挙げられます。

新派の名優井上正夫や神奈川県知事内山岩太郎、『二宮尊徳全集』を作った佐々井信太郎などのように、名前は出ていても港北区民であったことが記されていない人もいます。

筆者の知らない人物も多いかと思います。お教えいただければ幸いです。本年もよろしくお願いいたします。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2002年1月号)

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