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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第42回 「大倉山」事始め

2002.06.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


最近、日吉自分史の会の渡辺忠治さんが区域の地名を詳細に調査されています(『自分を見つめる記録集』第6号参照)。今後の成果が期待されます。

さて、この地名には、公称(行政地名)と私称(俗称地名)とがあります。公称は町名などで、現在では「住居表示に関する法律」(昭和37年施行、42年一部改正)に基づき名称や範囲を定めています。私称は小字名(こあざめい)などで、使う人により、また時代により、名称や範囲が異なるのでやっかいです。

では、「大倉山」は何でしょうか。『日本地名大辞典』(角川書店)を見ても、『日本歴史地名大系』(平凡社)を見ても、港北区には「大倉山」の項目はありません。私称の地名といえるのでしょうか。

「大倉山」の名が初めて公(おおやけ)になるのは、昭和7年(1932)3月31日、東横線全線開通の時に、それまでの太尾駅(ふとおえき)が「大倉山駅」に改称されたことに始まります(第3回参照)。

当時、大倉精神文化研究所に勤務していた岡崎賢次氏は、後年の回想で、「昭和7年研究所開設に当って、東急電鉄は(大倉邦彦)先生にどんな駅名にしたいか希望名を尋ねて来た。先生は第一候補大倉山、第二候補大倉研究所前、その他三つ、四つの候補名を挙げて返事された。東急線内には大岡山駅というのがあって音(おん)がまぎらわしいと言う声もあった。又地元の太尾町民にも改名に不満もあったが、結局第一候補の大倉山駅と決定された」(『大倉邦彦伝』)と述べています。

この間の経緯を、研究所所蔵資料で見てみましょう。

駅名改称は、昭和6年(1931)10月に東京横浜電鉄運輸課長立花栄吉(たちばなえいきち)氏よりの照会に始まります。残念ながらその手紙は現存しませんが、太尾駅からの改称について、研究所側の希望を募(つの)ったものと思われます。それに対して、「発信控」によると、10月31日付けで研究所から「協議の結果大倉研究所と致」したき希望が伝えられます。

しかし、この案は東横側から差し戻されたらしく、11月24日付けで改めて「大倉文研」「研究所前」「大倉山」の3案の内から選択してもらいたい旨の連絡をしています。東横電鉄では12月4日の社内会議で「大倉山と改称することに決定」し、昭和7年3月31日に改称されました。名前の由来は、大倉邦彦が作った大倉精神文化研究所のある山という意味でしょう。

こうして、「大倉山」はまず駅名として使われるようになりました。やがて大倉精神文化研究所のある山(丘)が大倉山として定着し、大倉山駅周辺の地域も大倉山と呼ばれるようになります。

では、大倉山とはどの地域を指すのでしょうか。地形から見ると、研究所のある丘は、大倉山駅前から研究所、梅林を経て太尾見晴らしの丘公園へと北東に向かい、鶴見川岸まで延びています。東側は東横線で分断されていますが、熊野神社市民の森(第28回参照)へとつながっています。どこまでが大倉山なのか筆者にはよく分かりません。マンション等の名称を調べてみると、研究所のある太尾町の全域、さらには大曽根台、大曽根、樽、師岡(もろおか)、大豆戸(まめど)などかなり広範囲に分布していることが確認できます。

「大倉山」の名前が使われるようになり、今年(平成14)で70年になります。7月2日から大倉山記念館で「目で見る大倉山の70年展」を開催します。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2002年6月号)

  • 【付記1】 渡辺忠治さんたちは、「港北地名を調べる会」を結成し、その活動成果は『港北歴史地名ガイドマップ』(2006年2月)となって結実しました。区民生活マップと同じ大きさの一枚ものの地図です。区内全域の字名とその境界、字名の由来が分かります。
  • 【付記2】 「目で見る大倉山の70年展」については、全展示品リストとその解説を『大倉山論集』第49輯(2003年)に掲載しています。
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