第50回 武者小路実篤がやってきた
- 2003.02.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
前回紹介した武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)は、大倉邦彦の依頼で原稿を執筆しました。その作品は慶應義塾大学教授西脇順三郎(にしわきじゅんざぶろう、1894~1982年、詩人・英文学者)が翻訳しました。短いものですから全文を紹介しておきましょう。
Some would wonder why I am an optimist. Pessimism is right if one considers only the destiny of an individual. Optimism is inevitable if one is able to feel the eternal truth of the human will. An enormous tree, even if told that it will be dried up and dead some few hundred years hence, cannot but sing its own joyous song, praising life and growing upwards towards the heavens.
TOKYO J. MUSHAKOJI
大意は、どんなに苦しい運命に置かれても私は楽観主義をとるのだ、というような内容でしょうか。インドでタゴールの置かれていた地位や、日本での講演とその批判などに、武者小路実篤の人生観をからめて、タゴールに捧げた一文のようです。
タゴールに贈られた『GOLDEN BOOK OF TAGORE』は日本語訳がありませんし、この作品のことは『武者小路実篤全集』(小学館、1987~91年)にも触れられていませんから、ほとんど知られていないものと思われます。
この武者小路実篤は、昭和6年(1931)5月15日、建設中の大倉精神文化研究所を見学に来ています。さらに、昭和28年(1953)7月4日、研究所が主催した自由大学講座の講師を務め「生活と人生」という講演をしています。前回紹介したタゴール生誕百年祭に関連して、昭和35年(1960)5月21日には、国際文化会館(港区六本木)で開催された生誕九十九年記念特別講演会で、「東洋人の一人として」と題して講演もしています。
インド関係では、昭和28年(1953)にパール博士をインドから招聘(しょうへい)し、講演会を開いています。パール博士は東京裁判において、日本の無罪を主張したただ一人の判事として有名です。
この他、岩波書店を創業した岩波茂雄(いわなみしげお、1881~1946年)も大倉邦彦と親交があり、昭和5年(1930)に岩波書店の刊行図書524部を研究所図書館に寄贈していますし、昭和6年(1931)12月5日には研究所を見学しています。
出版関係では平凡社を創業した下中弥三郎(しもなかやさぶろう、1878~1961年)が、昭和28年(1953)から31年(1956)まで大倉精神文化研究所の所長を務めています。
上記のパール博士は下中が招聘したものです。昭和36年(1961)には、吉田茂(よしだしげる)元首相も大倉精神文化研究所を来訪して、大倉邦彦と懇談会を開いています。このように、大倉山には様々な著名人が訪れています。
大倉山には訪れていませんが、「中村屋のボース」として知られるインド民族運動の指導者ラス・ビバリ・ボース氏(1886~1944年)も大倉邦彦と親交があり、タゴールの大倉邸宿泊は、「富豪の大邸宅での形式的な歓待は好まれない。むしろ思想的に気分のわかる人の所がよい」とのタゴールの意向を受けて、ボース氏が邦彦に依頼したものでした。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2003年2月号)