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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第51回 杉山神社を探そう

2003.03.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


受験シーズンもそろそろ終わりを告げるころです。普段は不信心な人でも、試験前には合格祈願に神社やお寺にお参りすることが多いようです。ところが、お願いだけは熱心にしても、結果の報告に行かない人が多いのは身勝手というものでしょう。お礼参りというと、ヤクザの出入りを連想されるでしょうが、本来の意味は、神仏に願掛け(がんかけ)したことが成就(じょうじゅ)したお礼に神社やお寺に参詣(さんけい)することです。試験に合格された方は(ダメだった方も)、是非ともお礼参りを忘れないでください。

さて、全国には12万社もの神社があり、稲荷の32000社、八幡の25000社、伊勢の18000社、天神の10000社などが多い例ですが、鶴見川流域には、日本中でもここにしかない珍しい神社があります。「杉山神社」です。鶴見川流域には49社もあり、よく見かける神社ですが、他の地域にはありません。その正体は何でしょうか。

さあ、皆さんも謎解きに参加してください。基本となるヒントは4つだけです。

  • 杉山神社の名前が初めて記録されたのは、六国史(りっこくし)の1つ『続日本後紀(しょくにほんこうき)』(869年成立)です。「承和(じょうわ)五年(838)二月庚戌(こうじゅつ、22日)、武蔵国(むさしのくに)都筑郡(つづきぐん)枌(杉)山神社、官幣(かんぺい)に預(あず)かる、霊験(れいげん)を以(もっ)てなり。」(原漢文)とあります。意味は、「都筑郡の杉山神社が朝廷(神祇官(じんぎかん)から幣帛(へいはく、お供え物)を捧げられた、それは杉山神社が霊験のいちじるしい神社だからである」ということです。

  • さらに、同書の承和15年(848)5月庚辰(こうしん)(22日)条「武蔵国无(、無)位()枌(杉)山明神に従五位下(じゅごいのげ)を授(さず)け奉(たてまつ)る」、意味は「それまで無位であった武蔵国の杉山神社の神様に、従五位下の神位を授け奉った」ということです。昔は神様にも朝廷から序列がつけられていたのです。残念ながら、杉山神社の神様の名前は記されていません。

  • 10世紀に編纂された『延喜式(えんぎしき)』の神名帳(じんみょうちょう)に「都筑郡一座(いちざ) 小(しょう) 杉山神社」とあります。神名帳は、国として官社(かんしゃ)(神祇官(じんぎかん)から祈年祭(きねんさい)に幣帛(へいはく)を奉る神社に認定していた神社を書き上げたもので、2861社(大社(たいしゃ)と小(しょう)社(しゃ)に分けられる)、祭神の数にすると3132座が記されています。これを式内社(しきないしゃ)といいます。武蔵国には44座の神様が書き上げられていますが、都筑郡・橘樹郡(たちばなぐん)・久良岐郡(くらきぐん)では、小社の杉山神社ただ1社のみです。

  • 14世紀半ばの成立といわれる『神道集(しんとうしゅう)』という書物には、「六宮(ろくのみや)ヲ椙(すぎ、杉)山(やま)ノ大明神(だいみょうじん)ト申(もう)ス、本地(ほんち)ハ大聖(だいしょう)不動明王(ふどうみょうおう)是(これ)也(なり)」とあります。意味は、武蔵国の総社(そうじゃ)である大国魂神社(おおくにたまじんじゃ、東京都府中市)はかつて六所明神(ろくしょみょうじん)ともいわれており、そこに合祀(ごうし)されている六宮の内、「六番目の宮を杉山大明神といい、その本地仏(ほんちぶつ)は不動明王である」ということです。神は仏が姿を変えて現れたものとする本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)により、杉山明神の元の姿は不動明王だとしています。

古い歴史を持つ杉山神社も、古代から中世にかけての記録はこの4件のみです。これは現在のどの杉山神社になるのでしょうか。そのお話は次回に。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2003年3月号)

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