第59回 英雄源頼朝の伝説
- 2003.11.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
港北区域の伝説や昔話を整理していて興味深いことに気が付きました。多くの話は、荒唐無稽(こうとうむけい)なものなのですが、中にはさも史実(しじつ)かと思わせるような話が伝わっています。たとえば、源頼朝(みなもとのよりとも)に関するものです。
『新編武蔵風土記稿』(しんぺんむさしふどきこう、第52回参照)は、「駒林村」(こまばやしむら、日吉本町)はかつて「川田の郷(かわたのごう)」といっていましたが、白馬を源頼朝に献上したところ、頼朝は大変喜んで「駒林之郷(こまばやしのごう)」と名付けたという話を伝えています。また、かつて松の川に架けられていた「駒が橋」(こまがはし、下田町)は、源頼朝がこのあたりに来た時、乗っていた馬が走り出してこの橋のあたりで留まったために、橋を「駒ヶ橋」と名付け、村の名前も「駒ヶ橋村」としたという話を伝えています。この話、『港北百話』では少し違っていて、頼朝が川の流れに馬(駒)を乗り入れて渡ったので「駒ヶ橋」というようになり、近くの丘には、その時にぬれた鞍(くら)を掛けて休息した「鞍掛の松(くらかけのまつ)」があったとしています。
岸根町(きしねちょう)にかつてあった「琵琶橋(びわばし)」には、様々な伝説がありますが、その中にも頼朝の話があります。
ある時源頼朝が鎌倉への帰り道にたまたまこの橋にさしかかったところ、一人の琵琶法師(びわほうし)に会った。そこで頼朝は琵琶法師に琵琶を弾かせながらここで休憩(きゅうけい)を取ったため、橋の名が琵琶橋となったという(『港北百話』)。
師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ、師岡町)では、昭和30年(1955)頃まで藁(わら)の大蛇(だいじゃ、第22回参照)を作り村境の木に架けるという「しめよりの神事」を行っていましたが、これは元暦元年(げんりゃくがんねん、1184)源頼朝の発願(ほつがん)により始められたと伝えられています。
この他にも、源頼朝の家臣畠山重忠(はたけやましげただ)や佐々木高綱(ささきたかつな)に関する伝説もたくさんあります。いずれ回を改めてご紹介しましょう。
しめよりの神事以外の話は、何時(いつ)のことだか分かりません。頼朝は本当にこの辺りに来ていたのでしょうか。かつて、鎌倉に通じる幹線道路は「鎌倉街道(かまくらかいどう)」とよばれ、主要な道が7本ありました。区域には、その内の「下の道(しものみち)」が通っています。かつての区域は交通の要衝だったのです。駒が橋や琵琶橋は、鎌倉街道に架けられていた橋の名前なのです。源頼朝もこの「下の道」を何度となく通ったのでしょうか。源頼朝(1147~99)は、鎌倉幕府を起こし、以後700年におよぶ武家社会の基を築いた英雄として、関東では大変人気があるようです。関東では、『吾妻鏡(あづまかがみ)』が今でもよく読まれています。義経(よしつね)人気の高い関西では考えられないことです。小森嘉一さん(こもりよしかず、第1回参照)は『吾妻鏡』講読会の講師を70歳代から始められ、十数年かけて今年全巻を読破されたそうです。
こうした頼朝人気から、関東各地に頼朝にちなんだ地名や史跡がつくられたようです。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2003年11月号)