第63回 綱島温泉の記録 -その2-
- 2004.03.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
前回に続けて、東横線開通後から終戦までの綱島温泉の様子を見てみましょう。
- 大正15年(1926)2月14日、東京横浜電鉄神奈川線(現東横線)が開通し、「綱島温泉駅」が開業した。これと共に温泉もにぎわうようになった。
- 昭和2年(1927)4月、東京横浜電鉄が、「旅客誘致(ゆうち)及(および)土地開発の一助(いちじょ)」(兼業認可申請書)として、綱島温泉駅前(現在の東京園の場所)に「綱島温泉浴場」を開場した。総建設費38,000円、土地3,372㎡。
- 当初は多摩川園(現在の東急多摩川線多摩川駅の近くに1924~1979年まであった遊園地)にならって遊園地にする計画であったが、資金問題から温泉浴場だけでスタートした。
- 入浴料は、当初1日10銭(せん)の予定だったが、開業直前に五島慶太専務(ごとうけいた、第16回参照)の命(めい)で20銭に変更した。
- 電鉄の往復乗車券所有者は入浴無料だった。
- 綱島駅西側低湿地は、区画整理が行われ、のちに綱島温泉旅館街として発展する。
- 綱島駅のまわりと大綱橋(おおつなばし)から(綱島街道の)旧道にかけて、にぎやかな温泉街となった。
- 大綱橋の近くには、八幡館という映画館ができ、みやげ店も立ち並んだ。
- 温泉を発見した杵屋(きねや)は「ラジュウムまんじゅう」を、綱島の新杵(しんきね)は「ラジュウムせんべい」を売り出した。
- 神奈川県下有数の大温泉郷となり、東京に近いことと交通の便が良いことから、箱根に次ぐ遊客を招いた。
- 一時は「横浜の箱根」と呼ばれた。
- 昭和の初期には「東京の奥座敷」として有名になった。
- 戦前は「東京の奥座敷」として大きな温泉街に発展した。
- 杵屋の前には、昭和8年(1933)建立の当時の大西一郎横浜市長の筆になる「ラヂウム霊泉湧出記念碑(れいせんゆうしゅつきねんひ)」が建っている。井戸は碑から8メートルほど東によったところにあったが、綱島街道の拡張によって、舗装(ほそう)の下に埋没して今は見ることが出来ない。
- 昭和10年(1935)当時、綱島には47軒の旅館が建っていた。
- 昭和18年(1943)8月、近藤(壌太郎)県知事の命令で旅館営業は一斉に廃止させられた。
- 昭和19年(1944)10月20日、「綱島温泉駅」を「綱島駅」に改称。
- 温泉浴場は、(戦時中に?)東芝が寮(保養所ともいう)として買収した。戦時中は兵隊の寮として使われた。臨時の小学校として使用されたこともある。戦後、東京園が引き継ぎ公衆浴場を復活した。
- 華やかだった旅館街は、戦時中は軍需工場へかよう人たちの寮となったり、軍関係の宿泊施設になった。
筆者は、ばくぜんと綱島温泉の最盛期は戦前かと思っていましたが、戦時中に一旦下火となった温泉街は、戦後に最盛期を迎えるようです。次回はその様子を見てみます。さて、ラヂウム霊泉湧出記念碑は、裏面にも文字が刻まれていますが、太い木の枝が邪魔で読めません。文面を御存じの方がおられましたら、ご教授下さい。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2004年3月号)