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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第64回 綱島温泉の記録 -その3-

2004.04.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


今回は、昭和20年以降の綱島温泉に関する記録です。

  • 昭和20年(1945)10月30日に復員(ふくいん)してきたら、旅館は64軒あり、アメリカ兵の慰安所(いあんじょ)として徴用(ちょうよう)されていた。
  • 戦後間もない頃には、芸者が100人以上もいたという。
  • 戦後、「東京の奥座敷」として復活した。「関東の有馬(ありま)温泉」とも称されたという。
  • 昭和27年(1952)頃か、大衆浴場「行楽園(こうらくえん)」は、ラジオで「百円天国」と宣伝し、全国的に知られた。
  • 昭和28年(1953)頃、50余軒の旅館や料亭があった。
  • 昭和30年(1955)、南綱島に43軒、大曽根に1軒、樽に4軒の旅館があった。
  • 歌手の三橋美智也(みはしみちや)は、北海道から上京し、東京園でボイラーマンをしながら歌の修行をしていた。昭和35年頃、綱島小学校の体育館建設募金に協力した。
  • 最盛期の昭和30年代には、温泉旅館が7、80軒あり、芸者衆300人ともいわれた。
  • 昭和39年(1964)に東海道新幹線が開通し、伊豆・箱根が身近なものとなるまで、綱島温泉街の果たした役割は大きかった。
  • 昭和40年代初めまでは、綱島駅のまわりに温泉旅館が80軒も建っていた。
  • 昭和46年(1971)をさかいに、旅館は急速に減っていった。
  • 昭和50年(1975)頃、約70件の温泉宿があったという。
  • 昭和63年(1988)当時、綱島温泉旅館組合の事務所はまだあったが、ほとんど活動していなかった。
  • 東京園は、火災に遭(あ)い、昭和50年頃営業を中止していた。東京園は2度の火災を経ている。
  • 平成6年(1994)2月、最後に残っていた温泉旅館・水明(すいめい)が廃業した。
  • 現在は、東京園しか残っていない。
  • 温泉街の面影は、横浜市立学校教職員互助会の保養所「浜京(はまきょう)」くらいになってしまった。
  • 平成13年(2001)11月現在、港北区内にはラジウム温泉に入れる浴場が6カ所(日吉湯、富士乃湯、浜京、東京園、太平館、しのぶ湯)ある。

3回にわたって、様々な資料から綱島温泉に関する記述を集めて、ほぼ年代順に並べてみました。綱島温泉の概要がおぼろげに見えてきました。しかし、いつの頃の話か分からないものもありますし、個々の情報の根拠も定かでありません。相互に矛盾(むじゅん)する内容もあります。ここから先は私には調べきれませんが、なぜ昭和39年ではなくて昭和46年を境として急速に衰退したのか、その原因が気になります。

綱島温泉の最盛期が昭和30年代だったとすると、まだ関係者も大勢おられるでしょうし、資料も残されているかと思います。元気な綱島(第27回参照)のことですから、地域の方々の手により、今の内に詳しい温泉誌が作られることを切望します。そこから、綱島のさらなる活性化のヒントも見つかるような気がします。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2004年4月号)

参考文献
0016『綱島の移り変わり』1974年
0017『港北百話』1976年
0028『ひがし』1981年ヵ
0038『神奈川県温泉誌』
0043『大曽根の歴史』1984年
0046『わたしたちのまち高田』1984年
0059『創立十周年記念誌』1988年
0069『創立二十周年記念誌』1991年
0116『てくてく港北』
0117『わがまちの昔と今』2000年
0118『横浜徘徊』2000年
①『神奈川県大観2 横浜・川崎』1953年
②『われらの港北 30年の歩み』1967年
③『東京急行電鉄50年史』1973年
④『とうよこ沿線』5号、1981年
⑤『港北区史』1986年
⑥『神奈川県北東の医史跡めぐり』1999年
⑦『改訂版 かながわの温泉』2000年
⑧広報よこはま こうほくく版『こうほく』No.49、2001年
⑨『マイウェイ』No.47、2002年
⑩「横浜温泉に含まれる主な化学成分の特徴」(『温泉地学研究所報』33、2002年)
⑪『SALUS』Vol.23、2003年
⑫『綱島魅力発見マップ』

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