第66回 昭和13年の大水害
- 2004.06.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
大倉精神文化研究所所蔵の資料から、昭和13年(1938)の大水害の記録を発見しましたので、以下に紹介します。
6月28日に降り出した雨は、29日になると豪雨となります。各地で出水があり、電車事故も発生し、東京方面より通勤の所員は午後3時退所となりました。
大倉山は急な斜面が多く、山の上にある研究所では、豪雨による周囲の崖崩(がけくず)れを警戒していました。午後5時15分、まず駅からの坂道の片側が崩れました。そして、5時30分、楠風荘(なんぷうそう、所員住宅)脇の崖が崩れ、崖下の民家が倒壊しました。警戒していた所員一同は、直ちに現場へ駆けつけ、下敷きとなった方々の救出にあたっています。午後6時30分頃、3名を救い出しましたが、1名重傷、2名は死亡でした。重傷者は青木病院へ収容されます。
その後も雨は降り続き、ついに午後11時頃より鶴見川が氾濫(はんらん)しました。押し寄せる濁流に、多数の家屋が床上(ゆかうえ)または天井まで浸水しました。太尾町(ふとおちょう)の住民は、綱島街道脇にあった大綱小学校(おおつなしょうがっこう)に避難しました。しかも、停電・断水が重なり、人々は恐怖の一夜を過ごすこととなりました。
翌30日、研究所員3名が大綱小学校に避難民の見舞いに行くと、小学校も浸水していました。そのため、研究所本館(大倉山記念館)東側の神風館(じんぷうかん、武道場)を解放して、避難民23家族90余名を収容することとなりました。午前中まで降っていた雨も午後にはいったん上がり(7月2日から4日も降雨)、電気も復旧しました。
寸断されていた交通網が復旧し、研究所の全所員が出勤して平常勤務に戻ったのは7月4日のことでした。この日、研究所では風呂を立て、避難者に入浴をさせています。神奈川警察署長・県保安課長・県会議員等が5日に、神奈川区長(当時は神奈川区域に属していました)は6日に、それぞれ水害の見舞いと視察に来ています。
7月9日、避難者が全員引き揚げ、避難所は閉鎖されました。しかし、これで事態が解決したわけではありません。死亡者まで出した崖崩れについて、その後4ヶ月にわたり、土地を販売した東京横浜電鉄株式会社地所部、土地所有者の大倉精神文化研究所、そして神奈川警察署、被害者の4者間で、原因究明、補償、災害復旧について話し合いが続けられています。資料によると、10月末になり、東横電鉄は被害者への見舞金として研究所(仲介したのでしょうか)へ1650円を支払い、研究所は香奠(こうでん)300円と見舞金4000円を支払っています。
さて、当時の鶴見川流域では改修促進運動が展開されていましたが、なかなか国の予算が付きませんでした。しかし、この昭和13年の大水害により、翌年より国費による改修が行われることとなります。経緯は『鶴見川流域誌』(第60回参照)に詳しく記されています。その延長線上に造られた多目的遊水地が昨年運用を開始したことにより、鶴見川の安全性は高まりましたが、それでも完璧(かんぺき)ということはあり得ません。区役所に置いてある「鶴見川洪水避難地図」には、浸水予測地域や避難所が記されています。自宅や職場を確認し、防災意識を高めておきましょう。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2004年6月号)
- 【附記】 写真集『わが町の昔と今 8 港北区 続編』(「とうよこ沿線」編集室、2500円)が刊行されました。今回も、興味深い写真に詳しい解説がついています。