第67回 琵琶橋を語り継ぐ
- 2004.07.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
区域にはたくさんの民話や昔話が伝えられています。このシリーズでも幾つかを紹介(第12.22.23.57.59.61回など)してきましたが、最近、「琵琶橋(びわばし)」の伝承を地域に残そうとする動きがあることを知りました。
琵琶橋の名前の由来については、第59回で源頼朝(みなもとのよりとも)がここで琵琶法師(びわほうし)に会ったという話(第1の説)を紹介しましたが、『新編武蔵風土記稿』『港北百話』『横浜の民話』などを見ますと、橋の名前の由来には、この他にも3つの説が紹介されています。
第2の説 ある時、盲目(もうもく)の琵琶法師がここを通りかかり、丸木橋のために渡れずにいたところ、村の若者が面白半分に、橋が何の木で出来ているか当てたら渡してやると無理難題を吹きかけた。法師は、持っていた杖でしばらく橋を叩いていたが、やがて枇杷(びわ)の木であることを言い当てた。若者は大変感心して丁重に橋を渡してあげた。
第3の説 まだ橋がなかった頃のこと。一人の盲目の琵琶法師がここを通りかかり、しかたなく背負っていた琵琶を橋のように川へ渡して渡ろうとしたが、転落して死亡した。
第4の説 ある時、一人の琵琶法師が京の都へ上ろうとしてこの橋にさしかかったところ、盗賊にあって殺されてしまった。奪った琵琶を盗賊がここへ投げ捨てて逃げていったために、夜になると憂いを帯びた琵琶の音が聞こえるようになった。また、その祟(たた)りで、この橋を馬が渡ると怪我をするという。
琵琶橋の由来については、この他にも細かいバリエーションがたくさんあるようです。しかし、どの説が本当なのかは今では分かりません。臼井義幸(うすいよしゆき)さんの御教示によると、琵琶橋の架かっていた根川(ねがわ)は、鳥山川(とりやまがわ)の岸根小橋辺から分流して新幹線の南を通り太尾新道(ふとおしんどう)の方へ流れていた小川で、新横浜周辺の水田の用水として、かつては重要な役割を持っていたそうです。琵琶橋の辺りは、岸根村(きしねむら)と篠原村(しのはらむら)の村境になり、夏場の渇水時(かっすいじ)には水争いがよく起きた場所であり、そのために話題になることが多く、様々な伝承が残されたのでしょうということでした。
新幹線の開通後水田は減少し、昭和50年頃には根川も大部分が暗渠(あんきょ)にされ、琵琶橋は無くなりました。先日、臼井さんに橋のあった場所を案内していただきましたが、私一人では見つけられなかったと思います。
根川が暗渠になる前には、3本の石柱で作られた橋が架けられていましたが、それ以前は、枇杷の木の丸太2本で作られた橋だったという言い伝えがあります。かつて琵琶橋の脇に住んでおられた岩田さんは、屋号を「びわばし」さんといいます。岩田家の屋号は、楽器の「琵琶」ではなく、植物の「枇杷」の字を書きますが、枇杷の木の橋に由来しているのだそうです。
琵琶橋については、平成7年頃に一度、橋の跡地にモニュメントの建設計画がありましたが、実現には至りませんでした。しかし、最近また地元の人たちの間で計画が持ち上がっているようです。民話や昔話は、部外者が本に書きとどめたりするよりも、地域の人々の間で語り継いでこそ、その命があるといえます。ぜひ実現してもらいたいものです。私も応援しています。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2004年7月号)