第72回 講堂と稲荷谷戸
- 2004.12.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
前回の「武田の末裔伝説」について、ある方から質問と追加情報をいただきましたので、御紹介します。
質問は、小谷文海氏が述べている「講堂」とは、記念館の東側にかつて建てられていた日本家屋のことではないか、というものです。以下、その一部分を引用いたします。
現在、大倉山駅から記念館に向かい、記念館正面の長い階段の東側の大倉山公園に向かう道が一番高くなった場所の東側(進行方向右側)に道との間に巨木を挟んで相当広い平らな場所が有ります。
今は道は直線に近く進んでいますが、昭和40年代までは巨木の東側を通っていて、最高点の位置で東に膨らんだ道だったはずです。また現在とは比較にならない狭い道であったと記憶しています。
その巨木の東側の平らな、現在は草ぼうぼうですが、敷地に戦争当時から相当大きな日本家屋が建っており、数十畳にも達する日本間を持ち、その外側には縁側を擁していました。縁側の外側には硝子戸(ガラスど)が嵌(は)まっていました。子供が庭に入り込むと留守番の人が居て怒られたようにも記憶しています。(中略)その建物が「講堂」と呼ぶに相応しい建物であると考えます。
また、文海氏の言われている大正末年時代の武田谷戸(たけだやと)の住居および農地の佇(たたず)まいを想像すると今申し上げた位置なら谷戸から見上げることは可能でも、現在の(大倉山記念館)ホールの位置では下から見上げて人を見つけることは難しいと考えます。
大倉山の昔の様子を大変よく記憶されておられ、貴重な証言です。
御指摘の日本家屋は、武道場兼修養道場として昭和11年(1936)に建設された「神風館(じんぷうかん)」のことでしょう。小谷文海さんが話をされたのは昭和7年(1932)のことですから、当時はまだ神風館は建設されていませんでした。
研究所の附属施設として作られた神風館には、36坪の広間がありました。昭和44年(1969)に解体され、その直後に、東側に膨らんでいた道路も現在のように付け替えられました。大倉山の土地は全て、創設者大倉邦彦が自分で寄付したものですが、研究所の財政再建のために、神風館の土地をわざわざ買い戻して、跡地に自宅を建設しようとしたのでした。
ちなみに、神風館は、武道だけでなく修養会や講演会の会場としても使われていました。戦後は横浜勝実洋裁学院や神奈川県職員研修室に貸し出したこともあります。昭和13年(1938)の水害時には被災者の避難所になりました(第66回参照)。その時の資料が、横浜開港資料館で開催中の展示会「リバーサイドヒストリー鶴見川-幕末から昭和初期まで-」(2005年1月30日まで)に展示してあります。鶴見川の歴史がよく分かる展示会です。
武田谷戸から記念館ホールが見えないことは筆者も気になっていましたが、太尾駅(現大倉山駅)から山の上に登る途中に武田家の畑があったそうですので、そこで農作業をしていると、山に登る小谷さんが見えたのでしょう。
追加情報は、殿谷戸(とのやと)のさらに西側に「稲荷谷戸(いなりやと)」と呼ぶ谷戸が存在していた、というものです。これについては、筆者は全く知りませんでした。情報提供者の方は、稲荷谷戸についてさらにこのように書いておられます。
大曽根の冨川(ふかわ)一族は大倉山公園の西詰めの龍松院(りゅうしょういん)を菩提寺(ぼだいじ)としていますが、冨川家(特に殿谷戸近辺の)の葬列は稲荷谷戸を抜けていた筈(はず)と記憶しています。一般に「稲荷谷戸は道が悪い」と言われていたように記憶していますが、現在、稲荷谷戸と呼ばれていた場所を歩いてみると、道が悪いよりもキツイと言うべきかと思います。
匿名(とくめい)の方からの連絡でしたので、紙面をお借りしてお答えいたしました。拙(つたな)い原稿を丁寧にお読みいただいている方がおられることは大変励みになります。今後も筆者の知らない貴重な情報をどしどしお寄せください。
今回は、「大倉精神文化研究所建設関係資料」が11月5日に横浜市の文化財に指定されたことをお知らせする予定でしたが、変更しました。文化財指定はおめでたい話ですので、それは次回の正月号にいたしましょう。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2004年12月号)