第8回 終戦秘話 幻の神奈川高等学校
- 1999.08.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
現在の高等学校制度は昭和22年(1947)に作られたもので、それ以前に作られた高校を旧制高校と呼びます。神奈川県下には、この旧制高校が一校もなく、進学希望者は県外に出るしかありませんでした。そこで、高校の設立は県民の一致した多年の要望でした。
さて、財団法人大倉精神文化研究所の理事長兼所長の大倉邦彦(おおくらくにひこ、1882~1971)は、幼児から社会人までの一貫教育の実現を若い頃より考えており、農村工芸学院(佐賀)や富士見幼稚園(東京)の経営もしていました。また、請(こ)われて昭和12年(1937)より東洋大学の学長も務めていました。2期6年間に大学の再建を果たした邦彦は、県民からの要望もあり、いよいよ念願の学校設立に着手しました。
財団法人大倉精神文化研究所の組織を改めて、傘下(さんか)にあった富士見幼稚園と新設する神奈川高等学校を中心として、財団法人大倉学園を設立する計画でした。
神奈川高等学校は、昭和18年(1943)の開校予定で、初年度は大倉精神文化研究所本館(現在の横浜市大倉山記念館)を校舎にして、まず1年生だけで開校し、順次拡大する予定でした。東急電鉄から、研究所に隣接する梅林(ばいりん、第2回参照)の土地を譲り受けて、校舎を新築することも決めていました。当初は、尋常科(中学)と高等科の計七年制を考えていましたが、昭和18年1月21日の高等学校令の改正もあり、最終案では、高等科のみの2年制で各学年共に文科1学級、理科3学級、総定員320名の学校となるはずでした。学則や寄宿舎の入寮規定、実験道具等の設備備品のリストなども整備され、理事会の議決を経て文部省に申請する直前までいきました。
しかし、戦局の悪化により開校申請は中止され、翌昭和19年(1944)には研究所本館も海軍気象部に徴用(ちょうよう)され(第44回参照)、神奈川高等学校は幻のまま終戦を迎えたのです。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(1999年8月号)
- 【付記1】 大倉精神文化研究所附属図書館は、特殊コレクションの一つとして、「旧制高等学校文庫」を所蔵しています。これは、旧制高等学校資料保存会が『旧制高等学校全書』(全9巻、昭和出版、1980~85年)を編纂するために集めた資料類を中心に、同会より寄贈されたものです。