第83回 大倉山記念館をめぐる人々 -その1-
- 2005.11.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
横浜市大倉山記念館を作った施主(せしゅ)は大倉邦彦(おおくらくにひこ)、設計したのは長野宇平治(ながのうえいじ、第40回参照)ですが、長野宇平治について、大豆戸町(まめどちょう)の鈴木智恵子さん(すずきちえこ、第79回参照)から、たくさんの資料をいただきました。
それによると、長野宇平治は1867年(慶応3)越後の国高田に生まれ、第一高等学校から東京帝国大学造家学科(後の建築科)へ進みました。同級生に夏目金之助(なつめきんのすけ)がいました。いうまでもなく、後の夏目漱石です。漱石(そうせき)は友人の忠告により、建築家の道をあきらめ、文学者へと進むことになります。
この漱石が不思議な縁で大倉家とつながります。施主大倉邦彦が社長をしていた大倉洋紙店は、邦彦の義理の祖父大倉孫兵衛という人物が創業者です。この大倉孫兵衛は、戦前を代表する大出版社である大倉書店の創業者でもありました。夏目漱石が俳句雑誌士『ホトトギス』に連載していた処女作『吾輩は猫である』を、単行本『吾輩ハ猫デアル』として初めて出版したのがこの大倉書店なのです。
さて、大学を出た長野宇平治は、1893年(明治26)7月から横浜税関嘱託(よこはまぜいかんしょくたく)になります。翌94年8月からは奈良県嘱託として県庁舎新築の設計をします。この時、有名な彫刻家森川杜園(もりかわとえん)を訪ねますが、杜園はわずか1ヶ月前に亡くなっていました。杜園の最後の弟子で蔵書や絵画を受け継いでいたのが水谷鐵也(みずのやてつや)でした。水谷鐵也は、1876年(明治9)長崎生まれで、奈良県の小中学校を卒業後、森川杜園に師事し彫刻を学びました。杜園の没後、画家和田貫水(わだかんすい)に絵画を学び、後東京美術学校に入学、特待生となり、1902年(明治35)に卒業しています。この時、同期に高村光太郎(たかむらこうたろう)がいました。成績は、高村が二番、水谷が一番でした。水谷鐵也は卒業後東京美術学校の教員となります。
やがて、水谷鐵也は長野宇平治が設計した多くの建物の装飾を依頼されるようになります。大倉山記念館の正面破風(はふ)の彫刻、「心の間」吹き抜けの彫刻(第17回参照)、留魂碑(りゅうこんひ、第16回参照)なども水谷鐵也の作です。よく聞かれますが、吹き抜けの獅子(しし)と鷲(わし)はテラコッタという焼き物で出来ています。
長野宇平治は、建築家であると同時に優れた文化人でもあり、和歌に堪能で、歌人佐佐木信綱(ささきのぶつな、1872~1963年)とも親交がありました。
アテネより伊勢にと至る道にして 神々に出あひ我名なのりぬ
この歌は、長野宇平治の作で、大倉山記念館を詠んだ歌といわれています。佐佐木信綱も縁があり、1958年(昭和33)に大綱小学校の校歌を校長島村士計雄の依頼で作詩しますが、その三番の歌詞で、「自然の恵 よきところ 豊かな文化 咲きみのらん 西空はるかに 富士の嶺そびえ 大倉山の 塔は近し」と詠っています。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2005年11月号)