第86回 愛国寺と二・二六事件
- 2006.02.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
歴史を学ぶことの楽しみの一つに、「見えないものを見る」ことがあります。いま目の前にあるものは誰にでも見ることが出来ますが、すでに無くなったもの(第4回の小机城)でも、実際には作られなかったもの(第8回の神奈川高等学校)でも、資料を集めて想像力を働かせれば、あたかも目の前に存在するかの如くに知ることが出来ます。そのようにして、区内の「見えないものを見る」ことがこの連載の目的の1つでもあります。今回は、そうしたものの1つとして、かつて樽町(たるまち)にあった愛国寺(あいこくじ)のことを取り上げます。
愛国寺はもはや現存しませんし、歴史関係の本でも取り上げられたことがありませんので、私は最近までその存在自体をまったく知りませんでしたが、綱島西の城田九一(しろたくいち)さんが教えてくださいました。
昭和13年(1938)春、城田さんは綱島街道を通って大綱尋常高等小学校(おおつなじんじょうこうとうしょうがっこう、大綱小学校の前身で、港北公会堂の向かい側辺りにかつてあった)へ通っていましたが、ある日友人から愛国寺のことを聞いたのだそうです。
後年、愛国寺について調査した城田さんは、その成果を「二・二六事件後の一断面」と題して、『自分をみつける記録集』第1号(日吉自分史の会編集発行、1997年)に発表されています。解明しきれなかった謎もありますが、愛国寺に関する唯一の研究と思われます。城田さんの研究を手がかりとして、愛国寺について調べてみました。
まず、愛国寺のあった場所ですが、城田さんによると、「師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)の裏手にあり、師岡町(もろおかちょう)と樽町(たるまち)との境の山で、樽町の斜面上部、森の間から瓦屋根の一部が見え」たそうです。しかし、城田さん自身は愛国寺へ行ったことがありませんでした。樽町の吉川英男(よしかわひでお)さんが、地元の古老の方々に尋ねて下さいましたが、かつての森も今では家が建て込み、すっかり様子が変わっており、正確な場所をご存じの方はおられませんでした。
しかし、吉川さんが港北図書館から昭和14年(1939)測図の地図を見つけられました。そこには愛国寺と思われる卍マークが書かれていました。様々な証言や資料を付き合わせると、愛国寺は、熊野神社がある権現山(ごんげんやま)の北側斜面の中腹、樽町上組(かみぐみ)神明社の北隣りにあったようです。当時は、三菱重工大倉山病院(1962年開業)の前の道はまだ無く、愛国寺へは、雑木林の中の獣道(けものみち)のような小道を上っていったのだそうです。
城田さんが聞いた話では、愛国寺は、昭和11年(1936)2月26日に起きた二・二六事件の後に、事件の首謀者の一人栗原安秀中尉(くりはらやすひでちゅうい)の父親栗原勇(くりはらいさむ)氏がやってきて、事件の関係者を供養するために寺を建立したらしいということでした。二・二六事件とは、陸軍の皇道派青年将校(こうどうはせいねんしょうこう)らが1400名余の兵士を率いて反乱を起こし、総理大臣ら政府要人を暗殺して昭和維新を実現しようとしたもので、日本中を震撼(しんかん)させた昭和史の大事件です。そうした事件と愛国寺は関係があったらしいのです。
そこで、次回は、栗原勇氏の目的と、愛国寺の実態に迫ります。
- 【付記】 横浜市歴史博物館で、横浜最古の地名資料「諸岡五十戸」の木簡をテーマにした展示会を開催中です。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2006年2月号)