第97回 大綱八景 -当たるも八景、当たらぬも八景-
- 2007.01.01
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
あけましておめでとうございます。今回は、新春にふさわしく港北の風光明媚(ふうこうめいび)な場所についてのお話です。第93回で紹介した『大綱時報』の大正11年(1922年)9月15日号に「大綱八景」と題する記事があります。
中国には、景勝地(けいしょうち)として有名な瀟湘八景(しょうしょうはっけい)がありますが、日本ではそれを真似て金沢八景(かなざわはっけい)や近江八景(おうみはっけい)が選ばれています。記事を書いた「瀧田生」(ペンネーム、実は東林寺住職瀧田達禅)なる人物は、これらの八景はいずれも春夏秋冬、朝暮(あさくれ)の興(きょう)を選んであるが、「吾(わ)が村にも亦(また)八景なくては叶(かな)ふまい」と、昼寝の暇にチョイト八景を選んでみたそうです。「当たるも八景、当たらぬも八景(当たるも八卦、当たらぬも八卦)、御批評は読者諸君に御任せする」として、次の八か所を紹介しています。
- 綱島の桃林(つなしまのとうりん)
- 熊野台の清嵐(くまのだいのせいふう、青嵐)
- 篠原の秋月(しゅうげつ)
- 遠山の暮雪(えんざんのぼせつ)
- 歓成院の晩鐘(かんじょういんのばんしょう)
- 堀上の夕照(ほりあげのせきしょう)
- 菊名池の夜雨(きくないけのやう)
- 鶴見川の帰帆(つるみがわのきはん)
記事には解説が全くないので、今では何を指しているのかよく分からなくなってしまったものもあります。そこで大豆戸町(まめどちょう)の武田信治(たけだしんじ)さんと樽町(たるまち)の吉川英男(よしかわひでお)さんに伺ってみました。
①は説明不要でしょう(第15・30・62回参照)。春、一面に咲き誇った桃の花は温泉客に好評でした。
②は「太尾見晴らしの丘公園」のあたりの木立を抜ける初夏の風でしょう。大正2年(1913年)の『大綱村郷土誌』には「太尾後陵(こうりょう)ノ西ニ尽(つ)クル所熊野台(くまのだい)アリ、遠望ノ佳(か)ナルヲモテ人ニ知ラル」と記されています。
③の篠原(しのはら)辺には、斎藤茂吉(さいとうもきち)が「すすきの穂日に照らされてかがやける丘のふもとに心しづめぬ」「茅原(かやはら)の一方(ひとかた)になびき伏したるは昨日吹きたる疾風(はやち)にかあらむ」などと詠んだように(第78回参照)、丘一面にススキなどが生い茂り、風情のある月見が出来たようです。
④の遠山は、おそらく富士山や丹沢の山々を指しているのでしょう。かつては区域のどこからでも、夕焼けを背景として雪を頂く山々が見えました。
⑤の歓成院(太尾町)の梵鐘(ぼんしょう)は、この辺りでは唯一の時の鐘だったそうですが、昭和20年(1945年)2月に供出されて無くなります。
⑥の堀上は、港北区役所周辺の字(あざ)で、大豆戸村の名主吉田家の屋号にもなっていました。地面に穴を掘って作った「ほりあい田」と、その土を盛り上げて作った「ほりあげ畑」とが、櫛(くし)の歯のように交互に並ぶ景色は、この辺りの農地の特徴的な風景でした。
⑦の菊名池も、水道道(すいどうみち)が通る以前は菊名池公園プールの辺りまで広がった大きな池で、周りにはアシが生い茂っていたそうです。
⑧の帰帆は、鶴見川を行き来していた物資を運ぶ帆船(はんせん)の姿です(第7回参照)。当時、鶴見川は物流の大動脈でした。
のどかな農村風景が目に浮かびます。80年ほど前には、こうした風景が伝統的で美しいと感じられていたのでしょう。記事の後半には、「現代的の八景」として、当時は目新しかった風景があげられています。
- 横浜鉄道の煙
- 菊名新道の車
- 大豆戸耕地の鳥
- 南北綱島の桃
- 武田谷の雨(たけだやつのあめ)
- 篠原学校の月
- 熊野台の雪
- 歓成院の鐘
少しずつですが、近代化の波が押し寄せていることが伺えます。
翌月の『大綱時報』(大正11年10月15日号)には、「大綱八景の裏」と題する記事が掲載されています。筆者は「飛火庵」(ペンネーム、実は白幡の豊島功一)なる人物です。これは「春夏秋冬朝暮の苦境(くきょう)」を選んだものです。綱島の洪水に始まり、住民にとっては有り難くない八景が並べられています。正月にはあまりふさわしくないので、これは省略しておきましょう。
皆さんも、コタツにミカンで、「私の好きな港北八景」を選んでみませんか。
次回から、区内の名所旧跡を紹介していきます。本年もよろしくお願いいたします。
記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
(2007年1月号)