閉じる

大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第99回 東横沿線の名所・旧跡 -昭和5年の「沿線案内」より-

2007.03.01

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北』(『わがまち港北』出版グループ、2009年7月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


今から十余年前のことです。大倉精神文化研究所の図書館書庫の中で資料整理をしていたときに、珍しいものを発見しました。昭和5年(1930年)10月に発行された東京横浜電鉄株式会社と目黒蒲田電鉄株式会社(ねぐろかまたでんてつかぶしきがいしゃ)の「沿線案内(えんせんあんない)」のチラシです。表には、渋谷から横浜までのイラストマップが極彩色(ごくさいしき)で描かれ、裏には電車の運賃表と多摩川園の入園料、そして最寄り駅毎の「沿線の名所・旧跡・行事」の表が記されています。この「沿線案内」は、他の年にも発行されていますので、いずれ別の回で詳しく述べることとして、さっそく名所・旧跡を見てみましょう。

港北区域にある東横線の駅は、北から日吉駅(ひよしえき)、綱島温泉駅(つなしまおんせんえき)、太尾駅(ふとおえき)、菊名駅(きくなえき)、妙蓮寺駅(みょうれんじえき)の5駅です。

日吉駅からは、①加瀬山夢見ヶ崎(かせやまゆめみがさき)、②下田地蔵尊(しもだじぞうそん)、③日吉台(ひよしだい)の3ヵ所。

綱島温泉駅(今の綱島駅)からは、④綱島温泉、⑤桃園(とうえん)、⑥鶴見川、⑦神明山老松(しんめいやまおいまつ)の4ヵ所。

太尾駅(今の大倉山駅)からは、⑧熊野神社、⑨大倉精神文化研究所の2ヵ所。

菊名駅からは⑩成田山水行場(なりたさんみずぎょうば、すいぎょうばに訂正します)が挙げられています。

残念ながら妙蓮寺駅からはありません。

①は川崎市になりますから省略して、②下田地蔵尊は、下田町真福寺(しんぷくじ)の本尊で、「子育延命地蔵尊(こそだてえんめいじぞうそん)、俗に下田地蔵尊と呼ぶ。霊験顕(あきら)かにして賽客(さいきゃく)絶えず」と記されています。バス停の名前にもなっており、『港北百話』の巻頭に詳しく説明されています。③日吉台は、東急の分譲地です(第55回参照)。「付近一帯風光明媚(ふうこうめいび)、春は苺狩り(いちごがり)、秋は芋掘りの団体客に賑ふ」との説明が、いかにも郊外の新興住宅地らしいですね。

④綱島温泉については、第62回から65回で詳しく紹介しました。往復乗車券を持っていると入浴無料の特典があった「電鉄直営綱島ラヂューム大浴場」の写真が掲載されています。⑤桃園(とうえん)には、「付近一帯は関東一の桃の名所にして、三四月の交(こう)は満目(まんもく)の桃花(とうか)艶冶(えんや)たる紅雲(こううん)を吐(は)いて沿線屈指の行楽地なり」と説明しています。⑥鶴見川は、「釣魚(ちょうぎょ)に適す」と書かれているほど水がきれいでした。また、大正3年(1914年)に完成した大正堤(たいしょうづつみ、第76回参照)には桜並木が延々と続いており、まるで花の雲がたなびくようでした(「桜樹蜿々(おうじゅえんえん)として陽春(ようしゅん)の候(こう)、花雲靉靆(かうんあいたい)たり」)。当時は誰でもこの説明文をルビ無しで読めたのでしょうか、内容よりも読めたことの方が驚きです。⑦神明山老松は、「綱島駅南二丁(にちょう、200m余)」と記されていますが、「桃雲台公園にあり」とも書かれていますから、正しくは駅の東口を出て北東方向になります。山頂の神明社(しんめいしゃ)にあった複数の松の大木は、車窓からもよく見えました。桃雲台は絶景のビューポイントであり、昭和10年(1935年)に神奈川県の名勝史蹟に選ばれています(第89回参照)。

⑧熊野神社は「光孝天皇(こうこうてんのう)勅願所(ちょくがんしょ)にして関東隋一の霊験所(れいげんしょ)」と説明されています(第1回参照)。⑨大倉精神文化研究所は「海抜百五十尺(かいばつひゃくごじゅっしゃく、約45m)の丘上に聳立(しょうりつ)、竣工(しゅんこう、予定昭和6年4月)の暁(あかつき)は、規模設備に於(お)いて世界に誇るべき一大精神文化研究所たるべし」とあります。これが大倉山記念館です。竣工は1年遅れの昭和7年4月でした。

⑩成田山水行場は、「菊名東北一丁(いっちょう、100m余)」にあり、「断食水行(だんじきすいぎょう)の人、常に絶(た)へざる霊場(れいじょう)」と記されています。かつては多くの修行者で賑わったようですが、現在、菊名駅の近くにそのような場所はありません。①から⑨はすぐに分かりましたが、⑩だけは一体どこにあったのか、様々な本やインターネットの情報を調べても全く分かりませんでした。途方に暮れてしまい、この原稿執筆を先延ばしにしていたところ、驚くべき偶然と多くの方の御協力により、ついに明らかとなりました。その話は次回に。

記:平井 誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)

(2007年3月号)

シリーズわがまち港北の記事一覧へ