第17回 あっ! 勅使のアブミが...─むかし話、その5─
- 2017.08.15
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
前回の続きです。むか~し昔、港北の辺りは、鶴見川の洪水の被害を受けることが多かったので、古い街道は丘の上を通る尾根道でした。
師岡熊野神社には、平安時代に京都の朝廷から遣わされた勅使一行が、子安の浜から熊野神社を目指して北上したとの社伝があります。菊名までやって来た勅使一行は、鶴見区との区境の尾根道を通り、ちょうど現在の菊名小学校がある辺りで、馬の鐙(あぶみ)を置いたのだそうです。『新編武蔵風土記稿』は、「貴人」がここを通り過ぎる時に鐙を落としたと記しています。
村人は、その鐙をご神体として鐙明神社(あぶみょうじんしゃ)を建立しました。そうして、その辺りの土地を宮谷、神社へ向かう坂道を鐙坂通りと呼ぶようになったのだそうです。
鐙明神社は、後に阿府神社(あぶじんじゃ)と改称して祭神も武内宿祢命となりました。現在は場所も移動して、菊名神社の中に合祀されています。
さて、菊名神社といえば「がまんさま」が有名です。「がまんさま」とはいったい何でしょうか? 興味のある方は調べてみると楽しいですよ。(S.H)
(2017年8月号)