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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第47回 迅速測図 ─大倉山はじめて物語、その12─

2020.03.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 地図を見ると、中でも地形図を見ると、地域の様子がよく分かります。
 大倉山周辺が、洋式の近代測量によって作られた地図に初めて描かれたのは、明治14年、陸軍参謀本部が制作した迅速測図によってです。迅速測図とは、急いで測量して作った地図という意味です。西南戦争で地図の必要性に気付いた陸軍が、急いで作りました。
  迅速測図は縮尺2万分の1で、彩色のフランス式図と、モノクロのドイツ式図の2種類が作られました。見比べると、色の有無だけでなく、地図も文字情報も若干異なっています。 
 迅速測図を見ると、港北区域に横浜線や東横線などの鉄道が敷設される以前、つまり都市化が始まる以前の原風景がよく分かります。大倉山と師岡の丘は尾根続きになっています。綱島街道は、丘沿いに走る細い旧道のみです。民家の大半は丘周辺の微高地に点在しており、平地には田畑ばかりが広がっています。
 鶴見川を始めとする河川は、細くて曲がりくねった流路をしていて、近代の河川改修がなされる以前の姿が描かれています。ただし、早渕川だけは峰大橋辺りから下流部の流路がすでに直線になっており、江戸時代に河川改修されたことが窺えます。
 その次に古い地形図は、横浜市が制作した3千分の1地形図が知られています。これは、大倉山辺りは昭和16年製版ですが、残念ながら測量年が不明です。菊名の地図は昭和3年の測量なのですが、昭和22年に修正が加えられています。いずれも、東横線の駅前開発がある程度進み、綱島街道の新道が作られた後の様子を記録したものです。ところが、最近別の地図を見つけたので、次回に。(S.H) 

付記
地図(『わがまち港北3』277ページ参照)は、迅速測図のドイツ式図です。港北区域は、まだ江戸時代からほとんど変わっていなくて、のどかな農村地帯でした。太尾堤緑道は、鳥山川でした。

(2020年3月号)

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