第49回 公会堂の緞帳と鶴見川流域絵図
- 2020.05.15
文章の一部を参照・引用される場合は、『わがまち港北3』(『わがまち港北』出版グループ、2020年11月)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
港北公会堂の緞帳(どんちょう、ステージ幕)が、人間国宝芹沢銈介(せりざわけいすけ)のデザインによることは第6回で紹介しましたが、『わがまち港北3』282頁上段の写真がその緞帳です。芹沢銈介は、下田町の田邊泰孝氏の依頼により、昭和53年に下絵「陽に萌ゆる丘」を描きました。緞帳は、それを忠実に拡大して制作されました。緞帳の右下に写っている人物とサイズを比べると、その大きさがよく分かります。
緞帳は、一見すると不思議な抽象画のようですが、実は『港北百話―古老の話から―』の口絵写真を元にして、鶴見川の流域に広がる港北区域を描いています。民俗学者金子量重は、「太くたくましい川の流れは、燦然とふりそそぐ太陽の光に七色に輝き、それを囲む丘には、美しい花が咲きみだれて」いると解説しています。
デザインの基になった口絵写真から、「陽に萌ゆる丘」の絵解きをしてみましょう。『わがまち港北3』282頁下段に示した口絵写真は、綱島東の池谷家が所蔵する江戸時代の享和3年(1803)作成の鶴見川流域絵図です。緞帳と比べてみると、まず描かれている範囲が違います。流域絵図には、鶴見川の河口から緑区辺りまで描かれていますが、下絵は、その中からおよそ枠で囲った範囲を描いています。これは、ほぼ当時の港北区域に該当します。昭和53年当時は、都筑区あたりまでが港北区域でした。
流域絵図と緞帳をさらに見比べてみると、川の本数も違っています。流域絵図で「折本川」と記されているのは、江川と大熊川の2つの支流です。それが1本になっています。
鶴見川流域絵図が描かれた享和3年は、流域の33ヵ村が団結して、幕府代官所へ度重なる洪水被害を訴え、河川改修を陳情した年です。この絵図は、その陳情のために作成されたものでしょう。古来、流域の住民は鶴見川から恩恵と被害を受けながら、川と共に生活してきました。その歴史を雄弁に物語る絵図が、『港北百話』の口絵写真に使われました。それを見た芹沢銈介が、この絵図に明るい未来を象徴する豊かな色彩を加えることで「陽に萌ゆる丘」を制作したのです。
港北公会堂は、新型コロナウイルス感染拡大防止のための臨時休館に続けて、来年(2021)3月まで天井工事による休館に入りました。実は、流域絵図の口絵写真にはトリミングされた部分があります。詳しくは再オープン後のイベントでお話ししたいと思います。(S.H)
付記
上の写真(『わがまち港北3』282頁参照)は、港北公会堂の緞帳です。黒字は筆者による加筆。右下の人物は、芹沢銈介緞帳プロジェクト代表の大野玲子さんです。
下の写真(『わがまち港北3』282頁参照)は、『港北百話』に掲載された鶴見川流域絵図です。美しく彩色された絵図には、鶴見川と各支流の名前、陳情した33ヵ村の村名が記されています。枠線内が芹沢銈介の下絵に描かれた部分です。
(2020年5月号)