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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第60回 なんともややこしい綱島街道―その1―

2021.06.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和3年6月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 綱島街道の話をしたいのですが、道路の話はとても複雑でややこしいので、まずは分かりやすい旧綱島街道の話から始めましょう。
 現在の綱島街道(新道、地図の赤点線)は昭和になってから作られた新しい道で、それ以前には江戸時代にまで溯る古い綱島街道(旧道、地図の赤実線)がありました。旧道は溝口村と神奈川宿を結んでおり、かつては稲毛道とか高津往還、あるいは神奈川道などとも呼ばれていました。
 江戸時代、溝口村(川崎市高津区)は稲毛領の中心でした。矢倉沢往還(大山道)と多摩川の交差点に位置しており、二子の渡しがあり、内陸部の交通の要衝・物資の集積地として賑わいました。
 各地からこの稲毛領へと至る道を稲毛道といいました。その内の1つが神奈川宿からつながる道で、南・北綱島村を通ることから綱島街道とも呼ばれました。1889年に溝口を含む8ヵ村が合併して高津村になったことから、それ以降は高津往還とも呼ばれたようです。同様に、神奈川宿へ至る道は神奈川道と呼ばれて、これも複数ありました。
 神奈川宿から溝口まで旧道の道筋を辿ってみましょう。まず白幡村を通り、港北区域では東横線の西側に沿って北上し、妙蓮寺駅の先で東横線と交差して菊名駅東口を通り、菊名四丁目交差点で現綱島街道と交差し、丘沿いに進みます。
 菊名近くの旧家の古老から以前に聞いた話ですが、大倉山記念館を建築していた1930年頃のことでしょうか、資材を積んだトラックが旧綱島街道を大倉山へ荷物を運んでいたそうです。昼間は大八車や牛車が通っていて邪魔なので、トラックは夜中に走るのですが、重い荷物を積んで未舗装の凸凹道を走るために、家が揺れて寝ていても目が覚めたのだそうです。
  閑話休題、旧道は港北図書館や区役所の東側を通り、大倉山交差点の北側で現綱島街道と合流し、樽町郵便局辺りからは新道と分かれて、東横線側を北上し、大綱橋の手前でもう一度交差しました(第48回の地図参照)。
 綱島からは左折してほぼ神奈川県道106号となって溝口へと向かいます。新道とは違って、日吉方面へはつながっていませんでした。
 余談ですが、県道106号は通称を子母口綱島線といいますが、神奈川県では番号のみで呼び、公的には道路通称は使用していません。また、2005年からは一般県道の名称から「線」を削除していますので、県道106号線とはいいません。(S.H)

綱島街道(再改訂版).jpg

地理院地図に加筆

(2021年6月号)

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