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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第61回 東京オリムピツク鶴見川漕艇コース―地域の外、その4―

2021.07.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和3年7月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 オリンピックではなくて、オリムピツクです。東京オリムピツクで鶴見川漕艇コースが実現していたら、考えただけでもワクワクしませんか?
 下に示したように、85年前、1936年10月8日の『横浜貿易新報』で1面のトップ記事を飾っています。この記事によると、鶴見川と矢上川の合流点(鷹野大橋辺り)から末吉橋までの間に長さ約2500m、幅80mの直線コースを作る計画です。この記事には、1937年1月13日、15日、16日、17日、19日、20日、21日と続報もありますが、皆さまご承知のように実現しませんでした。
 この計画には2つの大きなハードルがあったのです。1つ目は、この記事は1940年に開催予定だった東京オリムピツクへ向けた会場整備なのですが、1937年に始まった日中戦争の影響で日本は翌1938年7月に開催を返上し、さらにはオリムピツク自体が第二次世界大戦のために中止となりました。
 2つ目のハードルは、鶴見川の改修です。繰り返し発生する氾濫を抑えるためには、鶴見区駒岡地先の川床に突き出た「岩瀬」と、河口の「ガラ洲」と呼ばれる岩盤を撤去することが必要でしたが、難工事で多額の費用が必要になります。そこで、国費や県費で改修してもらうために、百年前の1921年に鶴見川改修期成同盟(1934年から鶴見川水害予防組合)が結成され、陳情を繰り返していました。その結果、国費改修が決まりかけていたのですが、日中戦争の戦費拡大の影響で予算が付かなかったのです。そのために計画はお流れとなり、ボートレースの開催地は埼玉県の戸田に決まります(1964年に実現)。
 予算が付かなかった翌1938年に鶴見川では未曾有の大水害が発生し、1939年から国費改修が始まります。運が悪かった計画といえそうです。
 ところで、この記事では、矢上川合流点から末吉橋までの間に長さ約2500mのコースを作るとしています(下に想定図)。ちょうど岩瀬のある辺りです。そもそもこの間は、1200m弱の距離しかありません。話に矛盾があります。この記事は、細かいことには目をつむり、改修運動を側面から応援しようとしたようにも読めます。
 しかし、全く荒唐無稽というのでもありません。鶴見川の改修が終わった後、1988年に森永橋の下流側に鶴見川漕艇場が開設されています。(S.H)

昭和11年10月8日横浜貿易新報.jpg1936年10月8日付『横浜貿易新報』

オリンピック鶴見川漕艇場(直線/岩瀬).jpg漕艇コースの想定図(地理院地図に加筆)

(2021年7月号)

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