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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第62回 なんともややこしい綱島街道―その2―

2021.08.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和3年8月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 前々回の旧綱島街道の話で、今の綱島街道(新道)は昭和になって作られたと書きました。以下は、その話をしましょう。
 区役所で配っている「港北区ガイドマップ」を見ると、「綱島街道(主要地方道東京丸子横浜線)」と書かれています。主要地方道とは、道路法の規定により国土交通大臣が指定する主要な県道のことです。
 県道ですから、前に書いたように正式名称は「神奈川県道2号」であり、綱島街道も東京丸子横浜線も通称です。県道なので神奈川県が管理していると思う方もいるでしょうが、政令指定都市の中は県から各都市に道路管理が委託されています。ですから、東京丸子横浜線の神奈川区や港北区域部分を管理しているのは横浜市であり、日吉から北は川崎市の管理になります。
 さて、法律により管理される道路には、必ず起点と終点が定められています。東京丸子横浜線の起点は、東京都品川区西五反田の大崎広小路交差点であり、終点は横浜市神奈川区浦島丘の浦島丘交差点です。多摩川から北は東京都が管理しており、東京都では正式に東京都道東京丸子横浜線と名付けています。
 通称としての綱島街道は多摩川の丸子橋交差点から神奈川までを指し、東京都側は中原街道(有名な中原街道とは別)と呼ばれています。通称も場所によって違います。
 都道と県道に指定されたのは1920年であり、そこから整備が始まりました。整備の目的は、東京横浜間の交通混雑の緩和と物流確保でした。幕末の横浜開港から明治を迎え、近代化が進む中で、東京と貿易港横浜や京浜工業地帯との交通、物流の整備は長年にわたり国の大きな課題でした。その最大のネックが橋の無い多摩川でした。
 河口の六郷橋(第一京浜)から二子橋(国道246号)まで、約12キロの間は多摩川に道路橋がありませんでした。そこでその間に橋を架けて、新たに品川から横浜まで道路を通す計画が立てられました。それが東京丸子横浜線です。
 東京丸子横浜線には、道路法の他に都市計画法も関係しています。都市計画法は、明治以降に東京などの都市が無秩序に発展したことを踏まえて、都市の健全な発展と秩序ある整備を目的として1919年に制定された法律です。
 終戦時、東京丸子横浜線はまだ整備中でした。東京から横浜までの京浜間の戦後復興を目指す国は、1946年に戦災復興院告示で、東京丸子横浜線を都市計画道路に指定しました。同じ道路ですが、こちらは主要地方道が付かずに、単に東京丸子横浜線と呼びます。
 港北(特に鶴見川以南)の住民にとっての「綱島街道」は、もともと細くて曲がりくねっていた旧道を直線で広い道路にしたようなイメージがあります。
 しかし、以上の経緯をみると、たまたま綱島から南では旧道とほぼ同じ場所に東京丸子横浜線が作られただけであり、綱島街道の旧道と新道は別の道と考えるべきでしょう。(SH)

図面③.jpg(2021年8月号)

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