第64回 内山順が見た昭和30年代の港北
- 2021.11.15
文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和3年11月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。
前回の続きです。作家内山順(うちやま したごう)が実際に見聞きした港北区域の様子をご紹介します。
内山の家は、菊名分譲地の中でも坂の上の方にありました。昭和5年に住み始めた頃の分譲地は、家が2、3軒あるだけで草がボウボウとしていました。菊名分譲地は、篠原町(元篠原村表谷)に造成されたのですが、昭和46年に町名変更で錦が丘となりました。
篠原の地は、加賀国の篠原合戦に敗れた平家の落武者が住み着いた地だといわれており、その由緒を"聞くな、聞くな"と言ったのが菊名の地名になったとこじつける人もいたそうです。
まず菊名周辺から見て行きましょう。東京へ通勤する内山は、家の西側にある急坂(通称長寿坂)を下りて横浜線のガードをくぐり、安山さん(椎橋家)宅の前を通って踏切をわたり、菊名駅へ行っていました。昭和30年代になると付近の農家はすでに大根を干さなくなっていましたが、安山ではケヤキの枝にズラリと白い大根を干していて、その下をくぐって駅に向かったそうです。
第59回で紹介した菊名西口マーケットに、今年(2021)3月まで営業していたパチンコ店は、かつて菊乃湯という銭湯でした。昭和30年に銭湯が出来た話や、篠原八幡の下に住む植友さんから聞いた「いま、風呂屋のある西の方、マーケットのあるところで、盛んに氷をつくっていました・・」という話も興味深いです。
菊名に住み始めた内山は、篠原の観音寺の原田住職と親しくなり、日曜は早朝からお寺の掃除や手伝いをよくしていました。戦時中、観音寺は川崎大師の本尊を防空壕の中にこっそり預かっていましたが、内山はそれを見たことがあり、近くで空襲があると無事を確認するために走って行ったそうです。
新横浜駅の近くには、矢袋という字(あざ、地名)があります。金子出雲の城(篠原城)と小机城が矢いくさをして、両方の矢が落ちたところだそうです。一説には、篠原村と鳥山村の境を定める矢が落ちたところともいいます。その時大蛇が矢に射られて死んだ場所が蛇骨神社で、「それ等の地も、新らしく出来る横浜駅の敷地となろう」との一節から、港北区域が変貌を遂げつつあることが分かります。蛇骨神社を平成13年に再興したのが蛇幸都神社です。
内山は健脚でした。菊名から、西は長津田辺りまで、北は日吉から高田辺りまでしばしば一人で散歩をしていました。
鶴見川は「牛のよだれ」といわれて、ふだんは僅かばかりの水が緩やかに流れていましたが、大雨が降ると大洪水を引き起こしました。昭和33年9月の狩野川台風では第一京浜・第二京浜とも2日間寸断され、鉄道も止まりました。日吉から歩いて綱島に抜け、菊名へ帰る途中、内山が見た家々は、水に浮かんだ屋形船のようでした。
港北の地はたくさんの昔話や伝承が残っているような草深い土地で、内山はそれを丹念に記録していました。しかし、昭和30年代、日本が高度経済成長へと進む中で、この地にも市街化の波が押し寄せていました。戦前からイチゴ狩りや芋掘りで賑わっていた日吉駅西口高台付近は、いつの間にか家がギッシリと建ち並びました。
戦前の綱島は桃の名所でしたが、大半の木は戦時中に伐採されてしまいました。綱島と日吉の間には桃畑が若干残っていましたが、それも昭和30年代前半まで。綱島街道沿いの田も急速な宅地化が進み、30年代後半になるとカエルの鳴き声が聞かれなくなります。
内山順の随筆を読んでいると、港北区域の開発が進んでいく槌音と、それ以前の"山里"の香りが漂ってきます。まだまだご紹介したい興味深い話がたくさんあります。続きは図書館で内山順の原典をお読みください。(S.H)
(2021年11月号)