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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第68回 鎌倉殿が駆け抜けた道

2022.04.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和4年3月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 今月もちょっと寄り道します。NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が話題です。鎌倉殿とは、鎌倉幕府を創った源頼朝のことです。鎌倉は同じ神奈川県内ですし、"いざ鎌倉"で御家人たちが馳せ参じる鎌倉街道の内、下の道が区内を通っていましたので、何かと縁があります。
 鎌倉街道の正確な道筋は特定できないのですが、下の道には大きく分けて東と西二つの道筋が考えられています。東ルートは、港北区域東側の日吉-綱島-樽-師岡-菊名の尾根伝いに走る道。西ルートは、区域西側の下田-新吉田-新羽-岸根へと続く道です。とても古くからある道ですから、『新編武蔵風土記稿』や『港北百話』など地域の資料を読むと、この街道沿いに頼朝伝説がいくつも見つかります。
  たとえば東ルートでは、師岡熊野神社に伝わる話があります。『平成の大修造』記念誌によると、宇治川の合戦が行われる直前の、1184年1月8日に源頼朝が熊野神社で平家追討の祈願をして、怨敵退散、悪魔降伏のシメ縄(約6mの大蛇)を作り師岡村の東・西・南の村境に懸けさせたというものです。これが、1957年頃まで続いていた師岡の「しめよりの神事」の起こりであると紹介されています。
 地名の「師岡」は古くは「諸岡」と書かれていましたが、初めて師岡と書いた資料(現存最古)は、この追討祈願の前年1183年に頼朝が鶴岡八幡宮へ宛てた寄進状だと言われています。
 西ルートにあたる下田町は、かつて駒ヶ橋村と呼ばれていました。ある時、頼朝がこの辺りに来た所で、乗っていた馬が突然走り出して、松の川に架かっていた橋の辺りに留まったために村の名前を「駒ヶ橋」にしたという話があります。別の話では、頼朝が馬に乗って川を渡ったことから駒ヶ橋と言うようになり、その時に濡れた鞍を松の枝に懸けて乾かしたことから、その松を「鞍掛の松」と呼んだという話も伝わっています。
 岸根町では、頼朝が鎌倉への帰り道に岸根の辺りに差しかかった時、橋のたもとで琵琶法師に会い、琵琶を弾かせながらここで休憩を取ったため、橋の名が琵琶橋となったという話があります。
 この他にも、頼朝が直接訪れたという話ではありませんが、鳥山町の三会寺は、頼朝が佐々木高綱に命じて建立させたと伝えられていますし、日吉本町の昔の地名「駒林村」は、頼朝に白馬を献上したことから頼朝が駒林と名付けたという説があります。
 いずれの話も伝説かも知れませんが、大泉洋さんが演じる頼朝が港北区内を駆け抜ける姿を想像すると、なんだか楽しくなりませんか。(S.H)

DSC_0544.JPGしだれ桜越しの師岡熊野神社、2024年で創建1300年を迎えます。

(2022年3月号)

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