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大倉精神文化研究所

横浜市港北区地域の研究

第73回 今も続く田園都市の開発

2022.09.15

文章の一部を参照・引用される場合は、『大倉山STYLEかわら版!』(令和4年9月号)を確認の上、その書誌情報を典拠として示すようお願いいたします。


 2022年9月2日、東急株式会社(元東急電鉄株式会社)と東急グループは創業100周年を迎えました。遡ること100年前、1922年9月2日に設立された目黒蒲田電鉄株式会社がその始まりとされます。しかし、さらに源流をたどると、1918年に渋沢栄一が設立した田園都市株式会社に行き着きます。
 関東の私鉄の大半は貨物輸送を目的として設立されましたが、東急は違っていました。東急は街づくりから始まりました。郊外にいくつもの街(田園都市)をつくり、その間を鉄道で結ぶことを目的としていました。港北区内では、錦が丘(菊名分譲地)や日吉が田園都市として開発された街です。
 農村だった港北区域は、東横線と田園都市によって市街地化が始まりました。当時としては最先端の考えでつくられた街ですが、100年近くも経つと、駅前広場が狭く車道も1車線で歩道が無いなど、現在のライフスタイルにそぐわない点も目に付きます。
 では、田園都市開発は遠い昔の話なのでしょうか。
 東急は今も街づくりをしています。初期の田園都市を改良して現代風に開発したのが、多摩田園都市であり、そこを結んでいるのがその名も東急田園都市線(渋谷駅-中央林間駅)です。
 多摩田園都市は、1953年に当時の東急電鉄会長五島慶太が開発構想を発表したことに始まります。民間事業としては日本最大規模のニュータウン開発です。田園都市線全27駅間の内、川崎市高津区の梶が谷駅から大和市の中央林間駅までの17駅間に、こどもの国線沿線も合わせて、総面積約5,000㏊に及びます。これは多摩ニュータウンの2倍近い広さがあります。初期の計画ではなんと港北ニュータウンの範囲までも含まれていて、さらに広大な街づくりを目指していました。
 それだけではありません。「田園都市」の概念は、近年さらに進化を始めています。コロナ禍の中で、在宅勤務や企業本社の地方移転などが進んでいますが、昨年来政府もデジタル技術による地方創生策を打ち出し、それが今年6月に「デジタル田園都市国家構想基本方針」としてまとまりました。その実現の鍵は、河野太郎大臣率いるデジタル庁が握っているのでしょうか。
 私達が暮らす東横線沿線地域は、96年前から田園都市開発で市街地化が進みましたが、田園都市は今でも時代の最先端にあるのです。(S.H)

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1934年開業の東横百貨店(現東急百貨店)の包装紙の一部です。地域の方からご寄贈いただきました。白丸・黒丸が駅で、網目状の円が田園都市。港北区域の名所としては、左から綱島菖蒲園(第31回参照)、綱島温泉、慶應義塾が書かれています。

(2022年9月号)

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